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    生活保護狂騒曲:生活保護制度における偏見と恥。

    • 2012.05.29 Tuesday
    • 09:05
    吉本芸人の次長課長の河本氏が、扶養できるほどの所得があるにも関わらず彼の母親が生活保護を受けていた、という週刊誌報道をきっかけに、マスメディアでは異常ともいえる生活保護不正受給に関する報道合戦が行われている。その報道の多くは生活保護制度運用の実情から遠く離れたもので、いかにも多くの不正受給者が存在していて、市民の税金を盗み取っている罪人が精度の根幹を脅かすのではないかと思わせるようなくらいの劇的で稀な生活保護不正受給者の例を報道して、如何に非道徳的な事態が起きているのかということを煽るための一面的な報道がなされている。河本氏の件も実際には非常にまれな例に過ぎない。そして、自民党「生活保護に関するプロジェクトチーム」の座長とメンバーである、世耕、片山両議員による執拗な追及によりその報道にますます拍車がかけられている。今後マスメディアでは河本氏が如何に贅沢をしていたのかという報道がなされるであろう。なぜなら、それは市民の嫉妬煽るような情報であり、そのような報道をすることでマスメディアは市民からの注目を集めることができるからだ。

    私の議論の目的は河本氏が実際に不正受給をしたのかどうかではなくて(未だ完全な情報が出てきているわけではないのでその点については何とも言えないので)、このような問題により引き起こされるであろういくつかの懸念について議論することにある。私のこの問題に対する懸念は5つあり(1)こういった一面的な報道をすることによって、人々の生活保護に対する偏見が形成・強化されてしまう事がより深刻と思われる生活保護の問題を覆い隠し(2)今よりもさらに生活保護受給者に対して有害なステグマを形成し、それにより(3)生活保護受給資格がありかつ生活保護を受けなければ生活できない人達が、生活保護受給を戸惑い、それにより餓死者・自殺者が増えるなどの事態が起きかねない。(4)あるいは、今まで生活保護を受給していた人が病気などから回復していなく且つ働くための十分な体力がないにも関わらず、恥じて生活保護の受給を取りやめる事態になるかもしれない。(5)世耕、片山両議員による執拗な追求の仕方には大いに問題がある。彼らがこのように大々的に「不正受給」を殊更問題視することにより、生活保護に関するこれまでの偏見をさらに助長することになりかつ、その偏見を持ちこ人々が生活保護受給者を叩いたり、恥と思わせるということ自体にお墨付けを与えかねない、なぜななら彼らは国会議員という権威者であるので。したがって、彼らのキャンペーンは適切ではない。生活保護改革はこのようなキャンペーンをやらずともできたはずである。

    (1)生活保護に対する3つの偏見について

    では生活保護に対する偏見とはどのようなことを指すのであろうか?これからよくある偏見を幾つか上げてそれが事実かどうか検証していきたい。

    よくある偏見1) 「生活保護の不正受給者があふれており、制度としては成り立たなくなっているのであるから、このような不届きものたちを減らすための早急な対策(受給条件の厳格化等)をとるべきだ。」

    一番多くみられるこの偏見であるが、実際には生活保護の不正受給者はかなり少ない。ここ最近5年間の厚生労働省のデータによれば、不正受給者の割合は1%前後で不正受給金額の割合は全不正受給金額の0.3〜0.4%前後で推移している。これは脱税割合10%を大きく下回る数値であり、この程度の不正割合で生活保護制度が立ち行かなくなるというのならば、そもそも徴税体系は成立したいないという事になるだろう。しかし、不思議なことに不正受給を問題にする人の多くは脱税の問題には言及していないように思えるし、マスメディアも脱税割合との比較などはほとんどしていないように思える。個々でよくなされる反論は判明しているのは氷山の一角に過ぎない実際はさらに多いはずだという話である。しかし、よく考えてほしい、実態よりも多くの犯罪が行われているというのは不正受給だけに当てはまることではない、先ほど出した脱税の場合も同様である。つまり、いくらそれが氷山の一角であろうともそれ自体は反証可能性がないので議論することはできない。この主張はある種の陰謀論の様なものである。

    偏見2)「生活保護は簡単に受給できしかも真面目に働くよりも楽に生活ができるので、働かうのがバカバカしく思える」

     この偏見の前半は明らかに誤りであるが、後半は確かに誤りとは言えない真実を含んでいる。まず実際にどのような人たちが生活保護受給をしているのか確認してみると、厚労省の福祉行政報告例によると平成22年度の被保護者世帯の内、高齢者世帯42.8%、障害者・傷病者世帯33.0%、母子家庭7.7%、その他世帯16.1%となっている。このデータからも分かる様に、単純に失業した収入が低いだけなどでは生活保護は受給できないという事がわかる。例えば生活保護法第4条によれば「保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行なわれる」とあり、次の4つの要素からその資格があるかどうかを審査される。

    (a)稼働能力
    先ず基本的に健康で働く能力があるのであれば、働くように助言されます。精神疾患や病気その他の要因などで働けないことが証明できる場合はこの要件を見たしたと考えられる。また健康で働く意思もあるにも関わらずその地域の刑期が極端に悪く有効求人倍率などが極端に低い場合などもこの要件を満たしたと考えられる場合がある。

    (b)資産の活用

    預貯金は最低生活費の5割までは認められることになっているが、それ以上の預貯金は生活費に当てるべきものとされている。生命保険は原則解約しなければならず、自動車は山間地等で必要性が認められる場合を除き原則保有できない。また、株券・証券・ブランド品なども保有できない。土地・建物は住居とするもので著しく大きなものでなければ所有可能。つまり、すべて生活費に充てられると思われる資産は活用されなければならず、それでも生活に困窮する場合にのみ、この要件が満たされたと考えられる。

    (c)その他施策の活用
    生活保護の基本的理念としてそれを活用するのは最終手段とされているので、他に活用できる施策がある場合はそちらの活用を促される。例えば、国民年金や厚生年金など社会保険、雇用保険の失業給付、労働者災害補償保険の各種給付、子供の為の手当て、国民年金の支払い猶予など。近年生活保護受給者割合が増加しているが、その原因は、不況になり且つ、それにもかかわらず、生活保護以外のこれらのセーフテイネットが機能していない事。例えばドイツなどと比べると日本の失業保険の捕捉率は著しく低い。なので、生活保護費抑制という目標を政府が達成したいのであれば、たのセーフテイネットの機能不全を改善するべきだ。つまり、今の日本のセーフテイネットは生活保護に対して過剰な負担がかかっている。なので、不況になれば、他のセーフテイネットが頼りにならないので、どうしても生活後の活用をせざるを得ない人が増えている。

    (d)扶養義務の履行
    民法877条によれば扶養義務者の範囲は、直系血族及び兄弟姉妹並びにその他の三親等以内の親族で家庭裁判所が特に扶養義務を負わせたものとされている。これらの扶養義務者が扶養の意思を示した場合は、この要件を満たしたとは言えない。しかし、実際には扶養義務を断る親族は少なくないらしい。例えば北海道新聞(2010年5月10日・朝刊)によれば、生活保護行政を担うケースワーカーが高齢者の扶養負担を依頼すると「金をとられるくらいなら縁を切ってもいい」などと拒否する例が相次いでいるという福祉事務所担当者の指摘を報じていた。働く世代の年収が減少しているここ10年ほどで親族扶養を拒否する人が増えている様である。また、北海道のある都市での話であるが、そもそも扶養義務の履行が可能かどうかという事にさえ文書にて回答してくる親族は50%弱に過ぎなく、かつその中でも親族扶養に同意すると回答する扶養義務者は数%に過ぎないのである。つまり、今回の河本氏が数十年前に親族扶養を拒否したという事事体は珍しいことでもないのである。しかも、それは道徳的な問題ではなく彼の当時の給与では当然扶養などできるはずもなかった。親族の扶養義務が果たせるかどうかh道徳の問題ではなくて、所得の問題なのだ。そういう意味でも「親族扶養を常識にしたい」という世耕議員の発言は的外れである。親の扶養をしたくてもお金がないからできないというのが現実である。そういう意味でも、親族扶養を強調するのは現実の状況とあまりに乖離しているといわざるを得ない。それこそ、このような現状を把握し、その現実に合わせて生活保護行政を考えていくことを常識としたい。

    これらの要件をすべて満たした上で初めて生活保護が支給されるという事になる。つまり、簡単ではないのである。むしろこのような条件でさえ、本来ならば生活保護受給資格がある人達ですら、生活保護が受給できないという点が問題になっている。例えば所得・資産を考慮した場合に生活保護要件を満たすと思われる世帯は全世帯の内4.8%ほどあるが、実際に日本の生活保護世帯比率はたったの1.6%程度に過ぎない。独9.7%、英9.3%、仏5.2%と比較すると異常に低い。例えば日本とドイツの失業率はほぼ同じであることを考えればいかに日本の生活保護が必要な人に届いていないのかが理解できるだろう。親族扶養を考慮したとしても捕捉率=保護が必要な人がどれほど生活保護を利用しているかは3割前後に過ぎないと考えられる、言い換えれば7割前後の生活保護が必要な人たちが現在生活保護を何らかの理由で受けていないと考えられる。このような状態で生活保護要件をさらに厳しくすれば、さらに生活保護が必要な人に生活保護が行き渡らなくなる可能性が高い。つまり、最も深刻な生活保護の問題は不正受給どころか、そもそも日本では生活保護が必要な人の多数が生活保護を受けられていないという点にある。

    さて、この偏見2)の内前半が如何に間違えという事は理解されたと思うので次は後半の部分の検討に入るとしよう。例えば「社会保障国民会議分科会 所得確保・保障(雇用・年金)第1回参考資料」によれば東京都区部の生活扶助基準は3人世帯で月167,170円、高齢者単身世帯で80,280円、高齢者夫婦世帯で121.940円、母子世帯で174,540円とされている。此れと比べて、老齢基礎年金の平均受給額は5.8万円、厚生年金年月額は16.9万円となっているので、確かに老齢年金よりも生活保護費の方が高いという逆転現象が起きている。また3人世帯の場合でも仮にその世帯が共稼ぎでなくかつ非正規社員などの場合であれば、生活保護よりも低い労働賃金しか稼げないという逆転現象が起きる場合があり得る。また共稼ぎであっても両方が非正規社員であれば労働賃金から国民年金や社会保険、教育費、住居費などを引くと生活保護より貧しい暮らしになるという事は十分にあり得る(実際にそういう場合は多々起きている)。

    この問題はこの逆転現象を解決するための策は2つある。一つ目は生活保護の受給水準を下げることである。もうひとつ目は、逆に最低賃金を上げるあるいは、教育費を無償化する、正規・非正規の待遇の違いをなくすなどの政策をすることで、低賃金労働者の生活水準を上げるということである。前者はどちらをも低い生活水準に保っておく政策であり、誰も得をしない政策であり、むしろ、デフレを加速させる恐れすらある。後者は低賃金労働者の生活水準を上げることを目標にする政策であり、少なくとも低賃金労働者の待遇そして生活水準の向上を求めるものである。理屈としては後者の方が優れていると誰しも理解しているだろう。しかし、後者の改善策は長期的な時間がかかるように思えるので、現在低賃金の労働者からしたらよりすぐにでもできる前者に引かれるというのは分からないでもない、しかし、それをすると、全体のデフレを加速させるだけなので、生活保護受給者の生活保護受給者の生活保護受給水準を下げるにとどまらず最終的にはさらに自分たちの生活水準が下がるという事になりかねない。したがって、長期的利益を考えかつ、最終的には低賃金労働者の生活水準を向上させるという意味でも生活保護受給者叩き=生活保護給付水準を下げろと主張するよりも、むしろ、生活保護よりも少ない金額しか稼げない労働環境の改善を訴えるべきである。つまり、敵は生活保護受給者ではなくて、ブラック企業や非正規・正規の差別的待遇の改善を試みない政府または企業という事になる。

    偏見3)「生活保護受給者は怠け者である」

     以上に挙げたように、生活保護受給者は怠け者どころかあらゆるできる限りの自助努力を求められる、それでも生活ができないので保護を受けるのである。また先ほど提示したデータが示唆するように病気や障害・怪我などでそもそも稼働能力がないという場合も少なくない、この場合も怠け者とは言えない。働きたくても働けないのである。働きたくても働けない人がいるという当たり前の現実を理解しないで、失業者=怠け者という考えが形成されたのは日本の特異な歴史的背景がある。というのも日本は高度経済成長という特殊な時代を経験した。この時代の失業率は驚くべきことに1%台で推移していた。つまり、確かに、この時代はほぼ誰でも働く意欲と能力があれば働けたのだ。確かにこの時代に失業しているという事は怠け者と言えたのかもしれない。しかしである、時代は変わり、働きたくても働けない構造的失業というのが日本に表れて久しい。構造的失業者は怠け者ではないのだ、能力も意欲もあるしかし、そのような経済情勢故に働きたくても働くことができないのである。高度経済成長期の幻想は捨て、構造的失業というのがあり得るという事を再認識するべきである。

    まとめ

    (2)以上に見てきたように、生活保護の一番の問題は必要な人が生活保護を受けられていないという捕捉率の低さという事であった。そしてその一つの原因として考えられるのはもちろん生活保護基準が厳しいという事であるが、もう一つ重要な要因が考えられる、それは何かというと、恥である。先ほどドイツとの比較からも明らかだが、日本人はドイツ人と比較した場合明らかに生活保護を受給するのをためらっているように思える。その原因として考えられるのが生活保護=恥という概念ではなかろうか。例えば、厚生労働省社会援護局の資料によれば、生活保護受給者と非生活保護受給者を比較した場合10万人当たりの自殺率は2倍程度に上る。また生活保護受給者の自殺理由で一番多いのは健康問題59.5%だが、これはそもそも生活保護を受ける要件から考えて、非生活保護者に比べて圧倒的に健康問題を抱えている人が多いことから当然といえるが、注目すべきは2番目に多い理由である。2番目に多い理由はその他34.1%である、そして3番目に多いのは経済問題16.7%である。非生活保護受給者と比較すると経済・生活問題、勤務問題が少なく、その他が多いという特徴がある。

    これはあくまで推測にすぎないが、「その他」の多くには恥という理由が多く含まれているのではないだろうか?例えば河本氏は「生活保護を恥ずかしい」と表現していたが、様々なメデイアの報道を見るに、私にはあれは河本氏だけの感覚ではないように思われる。先ほどの偏見で紹介したように、生活保護受給者=怠け者という思想により、生活保護をうけた途端に怠け者というステグマがなされると考えられる。これは人々の幻想により作られた根拠のない偏見である。しかし、それが根拠のない偏見であるとしても当事者はそのように思われることを恥と思うのであれば、初めに議論したように、

    (3)そもそも生活保護要件を満たしていてもその様にみられるのを避けて、生活保護を受けるのを避けるという事を選ぶかもしれない、その結果餓死するなんてことも起こり得る(実際にそのような例はたびたび報道されている)、

    (4)あるいは、それを恥じて自殺してしまうかもしれない。そして、今まで生活保護を受けていても、その恥に耐えられなくなり生活保護が必要にもかかわらず、病気が回復していないにもかかわらず、生活保護受給をやめてしまうかもしれない。文化的に恥が特に日本人を自殺に追いやる可能性があることは第二次大戦を振り返るまでもなく明らかであろう。

    (5)そして、世耕、片山両議員による反不正受給キャンペーンは、不必要に不正受給者が多いかのような偏見を形成しかつ、不正受給をしていない生活保護受給者をも世間が疑いの目で見るという事を助長し、不正受給でない生活保護者が世間の人に疑われることでに新たに生活保護=恥という感覚を植え付けられることになるだろう。ただでさえ上にあげたような3つの偏見により生活保護受給者は生活保護=恥と感じてきていたのに、両議員によるキャンペーンは油に火を注ぐ大失態であり恥により餓死死者や自殺者を増やすことになる可能性を上げる、非人道的な行為と言わざるえない。彼らは今私が議論したような問題点を偏見を助長するようなキャンペーンをせずに粛々と進めればよかったのである。

    Why Do People Obey the Law? : From a Normative Model and a Developmental Psychology Perspectives.

    • 2012.05.20 Sunday
    • 11:55
    Abstract

     The aim of this this literature review is to explore to the reason why people comply with the law even though the compliance with the law may not directly provide people with benefits from a normative model and a developmental psychology perspectives. Prior psychological research revealed that people comply with the law because the law is consistent with their internal obligations. To explore the origin of this phenomenon, I reviewed developmental literature on this topic. Developmental psychology and longitudinal study demonstrated that this trend is found from 6 years old children to adults, and this is stable. Despite the sensitivity to the socialization is different across age. In the final section, I discussed implications of this study and suggested political reformation that can activate the judicial power so that it can allow citizens to fell security and freedom. This can activate deliberate democracy which Americans have pursued since independence.

    Key words: law, legitimacy, compliance, procedural and distributive justice.

    Why Do People Obey the Law? : From a Normative Model and a Developmental Psychology Perspectives.

    INTRODUCTION
    One of the most significant functions of the law is to prohibit the “war” of everyone against everyone and to promote and to protect the equal human rights for those who comply with the law (Hobbes 2008). Thus, compliance with the law is important for building a just and stable society that can protect people from the “war”, although people pursue the different goals based on their own interests, expectations, and values.

       Tocqueville (1831/2002) argued that the judicial power in nature is inactive, and it has to be triggered by voluntary obedience with the law. This voluntary obedience with the law can make it possible for the law to be recognized as the legitimate authority to be respected. When the law is recognized as the legitimate authority, people will comply with the rules of the law in perceiving it as just. Therefore, exploring to the conditions why and when people voluntarily obey the law can suggest the implications for how to build the legal environment and the laws which can convince people that the rules of the law are recognized as just. When people are convinced that the compliance with the law is equivalent to compliance with justice, the judicial power is activated, which can warrant the equal protection and security from the war of everyone against everyone. If people believed these expectations, then the laws will function as the power to stabilize the society.

       In this paper, the discussion will precede as follows. First, I will discuss two theoretical models to explain people’s obedience with the law. These are two models to explain compliance behavior: one of them is the instrumental model and the other is the normative model. The instrumental model posits that people comply with the law because they are afraid of the consequences of breaking the law, whereas the normative model posits that people comply with the law because they believe that the compliance with the law is consistent with their personal views on morality. Compliance literature supported the normative model more than the instrumental model because the normative model can reasonably explain much more compliance behavior than the instrumental model can.

       Second, I will explore to the details of the normative models. The normative model argues that the perceptions of the legitimacy of the law are highly correlated with the compliance with the law and procedural justice is more influence people’s compliance behavior than distributive justice. If procedural justice is fair, people will compliance with the law even though the outcome is unfavorable. This is called value expressive effects.

       Third, I will explore to the origin of the factors which can shape personal morality and the perceptions of the legitimacy of the law from a developmental perspective. I will review the studies which were conducted to investigate compliance behavior with the law for children and adolescents. Moreover, I will ensure whether the perceptions of the legitimacy and procedural justice are positively correlated with compliance with the law for children and adolescents as well as adults or not.
     
       Fourth, I will argue the possible explanation why perceptions of the legitimacy and procedural justice are more significant than deterrence and distributive justice to comply with the law. Finally, I will argue some suggestions for reforming the judicial system that can facilitate voluntarily obedience to the law.

    LITERATURE REVIEW

    An Instrumental Model and a Normative Model

    The fundamental idea of the instrumental model of the obedience with the law was based on the assumptions that behavior is shaped by rewards and punishments in the external environment (Wood 1972). It assumes that the nature of the environment immediately influence people’s actions. Thus, the legal authorities can make people comply with the law by rewarding compliance with the rules, and punishing or threatening to punish the violation of the rules. If this model is correct, then the work of the authorities to promote the compliance with the law is simple and straightforward. They just should distribute societal resources and focus their attention on how best to deploy them (Tyler 1990). This deterrence-based strategy for securing the public compliance is supported by political and legal authorities because the authorities require very little effort to communicate with the public or be responsive to it (Tyler 1990).

       Yet, this model does not explain real situations of the compliance with the law. From the instrumental model perspective, the rate of non-reporting income must be relatively high because people can gain enormous benefits, and there is relatively low probability of being punishment if they break the low. The actual rate of non-reporting income; however, is relatively low (Tyler 1990). This example indicated that people may obey the law not because they expect favorable outcomes (especially personal gain) of compliance with the law but because they may obey the law due to different reasons.

       Another theoretical model to explain the compliance with the law is the normative model. The normative model posits that people comply with the law because internal obligations which shape the perceptions of the legitimacy of the law (personal morality and peer opinions) lead people comply with the law. This idea is conceptualized by Hoffman.

    Hoffman argued:
        The legacy of both Sigmund Freud and Emile Durkheim is the agreement among social  
        scientists that most people do not go through life viewing societies’ moral norms as     external,coercively imposed pressures to which they must submit. Though the norms are     initially external to the individual and often it conflict with his/her desires, the     norm eventually become part of their internal motive system and guide their behavior     even in the absence of external authority (p.85).

     The assumption of this model is that people can voluntarily comply with the law if the actions to comply with the law are consistent with people’s view on right or wrong, even if not personally beneficial. Thus, the authorities should recognize that the law must be partially dependent on public goodwill, and should be concerned with making allocations and resolving conflicts in order to minimize people’s hostility toward the authorities and institutions making the decision (Scheingold 1974; Wahke 1971).

        The compliance literature suggested two types of internalized obligations (Tyler 1990). First, citizens may comply with the law because they recognize the legal authorities as having a legitimate right to dictate their behavior. The second type of the internalized obligation is derived from a person’s desire to behave in a way that is consistent with their own personal morality which is also influenced by peer opinions and socializations. This normative perspective can explain why the non-reporting income rate is relatively low. People seem to give a correct report because they may believe that compliance with the law is consistent with their internal obligations. Thus, the normative model seems to be a more reasonable model than the instrumental model to explain citizen’s behavior of compliance with the law.

    How do Perceptions of the Legitimacy of the Law and the Procedure Justice Influence Compliance Behavior?

     Tyler (1990) examined whether people’s compliance behavior with the law is dependent on the perceptions of the legitimacy of the law which is deduced by the normative model, or dependent on the deterrence of the law which is deduced from the instrumental model. In this study, he interviewed Chicago residents by randomized telephone interview. The questions he asked included these: legal experience, attitudes toward the law, and compliance behavior with the law. Tyler defined legitimacy as “the property that a rule or an authority has when others feel obligated to defer voluntarily.” The operational definition of the perceptions of the legitimacy is calculated by the sum of the rates of the questions corresponded to correctability, ethicality, representativeness, accuracy, suppression of bias, consistency of the treatment by police officers and courts.

       Correctability is calculated by how much opportunities people have in order to correct unfair or inaccurate legal authorities’ decisions and treatments. Ethicality is calculated by how legal authorities honestly make decisions without deceiving or lying. Representativeness is calculated by how legal authorities are concerned with the issues and allocation processes. Accuracy is calculated by how the ability of a procedure reached solutions that are objectively of a high quality, and this depends on using accurate information and informed opinions by people. Suppression of bias is calculated by how legal authorities can avoid favoritism and external biases. There are two types of biases. The first is for legal authorities have a vested interested in the outcomes of some specific groups. The second bias occurs if the legal authorities make a decision not based on evidence provided by people but based on by prior views on them. Consistency is calculated by the rate of two different aspects. One aspect of the consistency is interpersonal consistency. This consistency is calculated how authorities treat equally regardless of the backgrounds of people. The second aspect of consistency is consistency over time. Consistency over time is calculated how the procedure follow the same rules and be enacted in the same way each time it is used. The operational definition of the deterrence of the law is calculated by the rate of how the consequences of the obedience with the law are consistent with the rewards which are expected by people.

        The results demonstrated that the perceptions of the legitimacy of the law are significantly positively correlated with the compliance behavior with the law. The correlation between deterrence of the law and the compliance with the law is also significant as well, although the deterrence would less predict the compliance with the law than the perceptions of the legitimacy of the law (personal morality and peer opinions). Moreover, this analysis revealed that the perceptions of the legitimacy can independently contribute to predict the compliance behavior with law. These trends were observed regardless of the background: sex, race, age, income, education and political tendency, however, females showed higher compliance with the law than males, Caucasian showed higher compliance with the law than African Americans, older adults showed higher compliance with the law than younger adults, people with higher income and education showed higher compliance with the law than the lesser, and conservatives showed higher compliance with the law than the liberals.

        Another significant finding of this study was that Tyler tested whether the procedural justice could attenuate the effects of these variables: the influence on affect, influence on evaluations of authorities’ performance, and influence on the perceptions of the legitimacy if the outcomes of compliance with the law are favorable or unfavorable, which is called distributive justice. The more people believe that the judgments are fair the higher the procedural justice scores are. The higher procedural justice score group was defined as the group of fair procedural justice, whereas the lower procedural score group was defined as the group of unfair procedure justice.

        The results showed that the fair justice group did not find any significant differences in three variables between favorable and unfavorable outcome conditions. On the other hand, the unfair procedural justice group showed significant differences between favorable and unfavorable outcomes in all of three variables. These results indicated that people do not so much care about distributive justice if the procedural justice is fair. Tyler (1990) defined these effects as value-expressive effects. Value-expressive effects are promoted by procedure justice; however, fairness of procedural justice is not enough if people are only given opportunity to speak their claims. To promote value-expressive effects, the authorities must seriously listen to their claims and must seriously contribute to solving the issues and disputes for people.
      
        In addition, the results showed that legitimacy is significantly positively correlated with procedure justice. Thus, procedural justice can directly influence compliance with the law and can indirectly influence compliance with the law to enhance the perceptions of the legitimacy of the law and then the perceptions of the legitimacy of the law influence compliance with the law or the perceptions of the legitimacy of the law can enhance the perceptions of procedural justice.

    How Are Perceptions of the Legitimacy of the Law Shaped and Developed from Childhood to Adulthood?

     As I discussed above, procedure justice and the perceptions of the legitimacy of the law play a significant role in shaping people’s compliance with the law. Procedure justice is dependent on treatments of legal authorities whereas perceptions of the legitimacy of the law are dependent on personal experience which includes personal morality, experiences and peer opinions (Tyler 1990). However, there remained some questions. What kind of prior experiences influence the perceptions of the legitimacy of the law? Does early life experience influence the perceptions of the legitimacy of the law in adulthood? Can children’s compliance behavior also be explained by normative model?

        To answer the first question, I will review the legal socialization literature. Piquero et al., (2005) defined legal socialization as the processes through individuals acquire attitudes and beliefs about the law, legal authorities, and legal institutions. These processes occur through individuals’ interactions, both personal and vicarious, with polices, courts, and other legal actors. Legal socialization is composed of two factors: perceptions of the legitimacy of the law and legal cynicism of the law. Legal cynicism is an opposite notion of the perceptions of the legitimacy of the law. Piquero et al., (2005) examined how perceptions of the legitimacy and how the legal cynicism are shaped by prior experience within 18 months. They recruited adolescents whose age was 15 to 18 years old from New York City and Philadelphia by random sampling processes. They measured multiple factors that might shape the perceptions of the legitimacy and legal cynicism.

       There are three major findings. First, regardless of the initial level of legal cynicism and age groups, there were no significant differences of legal cynicism scores within 18months. Second, regardless of the initial level of perceptions of the legitimacy of the law, there were no significant differences of the scores within 18months. Third, legal cynicism is positively correlated with the crime rate of the city (peer influence) and experience of arrest. This study implies that perceptions of legitimacy of the law are shaped by peer opinions and prior legal experiences but it is overall stable through adolescent period. Next, I will answer the second question.

        To investigate the development of the perceptions of the legitimacy of the law from childhood to adolescents, Fagan and Tyler (2005) conducted longitudinal study for 10 year old children for 6 years for those who lived in two different areas in New York City. One is the city where the crime rates were higher than the others. They tested the hypothesis that legitimacy, legal cynicism and moral disengagement (believe that the law is consistent with their personal moral view) are shaped by social contexts (procedural justice, peer opinion and crime environment).

       The results demonstrated that legal cynicism, legitimacy, and moral disengagement, all of them were associated with the social contexts. For example, procedural justice is positively correlated with legitimacy and negatively correlated with legal cynicism. Moral disengagement is positively correlated with crime rates of the city. These findings are consistent with the normative view. The overall trends of legal cynicism is increasing from 10 to 16 years old, and of legitimacy and moral disengagement are decreasing from 10 to 16 years old. These results may explain why adolescent crime rates are the highest. Based on this data and on Tyler’s prior study, adolescents showed lower legitimacy of the law, which can predict lower rate of compliance with the law.The results shown here were opposite to what Piquero et al., (2005) found in late adolescents participants. In contrast to that study, early adolescent period seem to be relatively sensitive and unstable to be influenced by social contexts than the late adolescent and adult period.

        From the discussion above, internal obligations (legitimacy and personal moral views which is shaped by peer opinions) and procedural justice seem to be positively correlated with compliance with the law for both adolescent and adults, although the sensitivity to them are different. However, it is unclear whether children can comply with the law due to internal obligations or not. To answer this question, I will review the child moral development literature.

       Interests among moral philosophers and development psychologists in the issue of children’s understanding of the relationship between the law and morality led to robust studies on this topic in the 1960’s and 1970’s (Helwig and Jasiobedzka 2001). Most of these studies were conducted within the framework of moral development theory of Piaget and Kohlberg. Tapp and Kohlberg (1971) investigated the ability to differentiate morality from the law for children, adolescents and adults with interviewing open-ended questions. Based on this research, they proposed a developmental model of legal reasoning paralleling Kohlberg’s moral stages (Kohlberg 1981). From this view, Kohlberg suggested that elementary school-age children compliance with the law dependent on reward and punishment of the law, which is consistent with the instrumental model.

       However, there are several criticisms of this study. One of the main criticisms is that children might comply with the law due to their internal obligations for some specific laws but might not universally apply this reasoning to the law in general due to their limited cognitive ability. Kohlberg’s open-ended style questions could not measure this possibility. To test whether children comply with the law due to internal obligations but it could not reflect this fact due to the limitations of the Kohlberg’s study or children naturally comply with the law due to reward and punishment, Helwing and Jasiobedzka (2001) conducted the research based on different methods from Kohlberg did.

       In contrast to Kohlberg’s questions, they interviewed children aged 6, 8 and 10 years old with closed-end questions and asked them for law evaluations (“Is it a good law or bad law?), legitimacy of legal regulations (“Is it Ok or not for government to make a law?”), and the attitudes toward the law violation (“Is it Ok or not for people break the law?”) about six specific laws (three just laws and three unjust laws): a traffic law, a vaccination law, and a law requiring new compulsory education for children under 16 years old, denial of education to a class person, denial of medical care to the poor, and age discrimination). Participants were also asked about whether they should comply with social benefit laws even though the laws infringe upon individual freedom, rights and personal benefits.

       Their three findings were consistent with the normative model and refuted Kohlberg’s theory. First, 6, 8, and 10 years old children could distinguish morally good law and bad law, which refuted Kohlberg’s view because children could evaluate the law based on morality but not the consequences (reward and punishment) of compliance with the law. Second, all groups of children showed that they agreed with breaking the law if the law is unjust and comply with the law if the law is just, which is consistent with the results that compliance with the law is positively correlated with the perceptions of the legitimacy of the law(Tyler 1990). Third, they agreed with complying with social benefit laws even though it infringed upon their personal benefits, which is consistent with the cushion effects of procedural justice because social benefits laws imply high ethicality which is one of the components of procedural justice (Tyler 1990).

    Why Do People Care about Perceptions of the Legitimacy of the law and Procedural Justice More than Deterrence and Distributive Justice?

    From the prior researches, from children to adults, people may care about perceptions of the legitimacy and procedural justice more than the deterrence and distributive justice to comply with the law. This trend indicates that this may not socially learned behavior because even 6 years old children have the same trend as adults have, and this trend is stable through the life, although early adolescents show relatively weak trend than children and adults. Accounting for deterrence and distributive justice can be more reliably predicts short-term benefits for people. If people are interested in maximizing their benefits, then they should be concerned with that information. However, empirical studies do not support this view (Tyler 1990; Helwig and Jasiobedzka 2001; Piquero et al., 2005).

       Tyler (1990) argued that it is difficult for people to know whether their positive or negative consequences of compliance with the law are relatively beneficial or not compared with others. If people are punished by breaking the law, then they would know their absolute benefits or costs. However, it does not tell whether this benefits or costs are relatively larger or smaller than the others. This indicates that people might not obtain enough information to calculate deterrence and the value of distributive justice. If this is true, then for people to know deterrence and distributive justice information are not reliable information to shape their compliance behavior. In contrast, the law is legitimate or not or, and the procedural justice is fair or not are easily judged by citizens because it does not need to know other’s experience. They can evaluate these factors by their subjective experience base on their social contexts. Another reason is that fair procedure allows citizens to have an opportunity to speak their opinions, which makes it possible to feel self-control, and enhance their self-esteem if legal authorities seriously take care about them and viewed as fair legal actors (Tyler 1990).This may be enough to produce value-expressive effects. For these reasons, people are concern with legitimacy and the procedural justice more than deterrence and distributive justice in order to comply with the law.

    CONCLUSION

       Why do people obey the law is one of the central topics of the moral philosophy, political science and psychology. This question is not completely solved or cannot reach consensus among researchers, although there are convergent evidence that can strongly support the normative model from a variety of research fields and methodology. People comply with the law because they believe that the law is legitimate which is consistent with people’s internal obligations which are shaped by personal experience and socialization.

        Procedural justice may allow people to convince that the law is legitimate because it may produce value-expressive effects. If these arguments are true, then the effective strategy to enhance the efficacy of the law is that legal authorities should be more concerned with the claims of people, treat people equally and honestly commit their duty. To enhance the fairness of procedural justice, the law which can promote discrimination against some individuals should be liberated. For instance, banned same-sex marriage law is decreasing the people’s perceptions of the legitimacy of the law and procedural justice because this law discriminates against some specific individuals, which indicates that this law has less interpersonal consistency. To activate the law which can warrant security and freedom for citizens, the law should be modified which is consistent with citizens’ moral view and legal authorities should be concerned with citizens’ claim and treat them equally. Activation of the judicial power is indispensable condition to activate the deliberate democracy which Americans have pursued.

    References

    Fagan, Jeffrey and Tyler, Tom R. 2005. “Legal Socialization of Children and Adolescents.”
      Social Justice Research 18(3): 217-242.

    Helwig, Charles C and Jasiobedzka Urszula. 2001. “The Relation between Law and Morality:
     Children’s Reasoning about Socially Beneficial and Unjust Laws。”Child Development      72(5): 1382-1393.

    Hobbes, Thomas. 2008. Leviathan. Oxford: Oxford University Press.

    Hoffman, Martin L.1977. “Moral Internalization: Current Theory and Research.” In L.
      Berkowitz, ed., Advances in Experimental Psychology.Vol.10. New York: Academic Press.

    Kohlberg, Lawrence. 1981. Essays on moral development: Vol. 1. The philosophy
     of moral development. San Francisco: Harper & Row.

    Piquero, Alex R., Fagan, Jeffrey. Mulvey, Edward P. Steinberg, Laurence, and Odgers Candice.
     2005. “Developmental Trajectories of Legal Socialization among Serious Adolescent
     Offenders.” The Journal of Criminal Law and Criminology 96(1):267-298.

    Scheingold, Steuart A. 1974.The Politics of Rights. New Haven and London: Yale University
     Press.

    Tapp, June L and Kohlberg Lawrence.1971. “Developing Senses and Social Justice.” Journal of
     Social Issues 27(2): 65-91.

    Tocqeville, Alexis De. 2002. Democracy in America. London, UK: Penguin Books Ltd.

    Tyler, Tom R.1990.Why People Obey the Law. New Haven and London, USA: Yale University Press.

    Wahlke, John. 1971. “Policy Demands and System Support: The Role of the Represented.”
      British Journal of Political Science 1: 271-290.

    Wood, Lewis A. 1974. Deviant Behavior and Control Strategies. Lexington, MA: Lexington Books.


    読解力と誤読について。

    • 2012.04.07 Saturday
    • 09:20
    読解力と情報運用能力の区別

    PISAによれば読解力は「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考し、これに取り組む能力」と定義されているが、これは「読解力」を広い意味でとった場合であり、この定義には読解のみならず、その読解した情報を適切に運用する能力も含めて読解力と定義されている。

    二つの読解力の定義


    私がここで議論したい「読解力」とは、このPTSAの定義とは異なりもう少しせまい意味での「読解力」である。なぜなら、「読解力」と読解した情報の運用能力というのは区別して考えられるべきであると考えるからである。
    読解力は大きく分けて二つあると思われる。それは「演繹的読解力」「想像的読解力」である。

    まず演繹的読解力の定義をしてみることにする。演繹的読解力とは「適切な情報を文章から、その文章から演繹できる背景情報を基に、適切な演繹をし、その妥当な結論を導くことができる能力」を意味する。すなわち、演繹的読解力とは「あるコンテクストに依存した論理的推論能力の一つ」と言い換えても問題はない。いわゆる「書かれていることをそのまま読み取る能力」である。

    これに対して、「ある文章から書かれていない情報を、自分がすでに持っている経験や知識を基に帰納的推論をして結論を導くような読み方」を想像的読解力と定義しよう。


    さて、基本的にはどのようなテクストであれ、どちらの読み方をすることもできる。しかし、書かれているテクストの種類によっては、どちらかの読み方をする方が適切であるのかが文脈情報により決定されている場合がある。ではどのような文脈情報がある場合どちらの読みをすればよいのだろうか?その判断基準は、その文章が書かれている目的により分類することができる。

    つまり、「演繹的読解」をしなければいけないテクストとは(a)そのテクストが書かれた意図が事実情報を伝える目的で書かれている場合。それは学術論文、法的文章、何らかの注意喚起を促す情報、時刻表、あるいは「価値判断を含まない事実の記述」などである。この場合の「事実」とは参照することができる実在あるいは実態を何らかの客観的な手法により検証可能である事体を意味する。

    では「想像的読解」が必要なテクストとはどのようなテクストだろうか?というと、これはその文章が書かれている目的が (b)「事実情報を伝えること」ではなくて、「何らかの価値判断を伝える場合や何らかの理由で隠されたメッセージ、あるいは象徴的なメッセージを伝えることを目的にしている」読者の何らかの主張への説得を目的にしている文章を含む。では具体的にはどのようなテクストであるかというと、それは小説、詩、政治的スローガン、CM等のメッセージ、あるいはネタ、マンガやアニメを読む場合等といえるだろう。

    ではここで具体例を幾つか上げてみることにしよう。

    文:「道の向かい側から歩いてくる女性が白い犬を連れている。」さてこの文章を演繹的に読解してみることにする。すると得られる情報は、まずこの文章が書かれている場面は道である、其の道を歩いている人が存在する。そしてその存在している人の属性は「女性」である。そしてその人が連れているのは白い犬である。これが「演繹的読解」である。

    では同じ文章に「想像的読解」による解釈をしてみるとどうなるであろうか?これはいくらでもバリエーションがあるのだが、とりあえず私の偏見を基に「想像的読解」をあえてしてみることにする。(この文章にそのような読解をすることが不適切であるのは承知だがあえてしてみることにする)

    まずこの道というのは一本道である。道を歩いている女性は20代の女性である。そして釣れている白い犬はスピッツである。そしてそのスピッツは彼女が飼っている犬である。

    さて、この二つの解釈の違いはどのような点にあるのだろうか?一番顕著な違いは、「想像的読解による解釈」の方が得られる情報量が圧倒的に多いということである。しかし、残念ながら多くの不正確な情報を「演繹的読解」よりも含んでいる。例えば20代女性というのは、どこにも書いていない。勝手に私が何らかの偏見を基にそう解釈しているのである。例えば日常生活で犬を連れている女性は20代の女性が多かったという経験から過度の一般化をして、この文章に登場する女性も当然そうだろうと帰納的に結論を下している。これは当然論理手誤謬である。そして同じように白い犬をスピッツだろうと決めつけている、これも私の何らかの偏見からの過度の一般化=帰納である。
    そしてこの犬の飼い主が彼女であるというのも何の根拠もない、いい加減な推測である。「勝手に飼い主は自分で犬を散歩させるべきだ」と私が思い込みをしていて、そのお見込みにあうようにストーリーをでっちあげているということだろう。


    読解力が低いとは?



    さて、では読解力が低いというのはどのような状態であるか?というと、以下の三つの場合が考えられる。(1)「演繹的読解」が必要なテクストに「想像的読解」をしてしまう。(2)(1)の逆の場合。(3)「演繹的読解能力」、「想像的読解能力」自体が低い場合。現代文が苦手な人や誤読を頻繁にしてしまう人といいうのは(1)〜(3)のどれかに当てはまると考えられる。

    先ほど私がしてみた例は(1)にあたる、なぜなら、あの文章だけからは、あえて「想像的読解」をしなければならない根拠はどこにも見当たらないからである。一般的に言って特別な理由がなければ「演繹的読解をするべきである」

    では(2)はどういう例があるのかというと。「銀杏の木が箒になった」という詩的文章があったとする、ここで読者はそれが「詩的」文章であるということが事前に分かっている(例えばこの文章を刺繍の中から見つけた場合等)この前提で私がこれを「演繹的読解」をする。そして、銀杏の木があるらしい、そして今それは箒になったらしい、この二つの状態が起きることはあり得ない、したがってこの文章の作者は嘘をついているか、不適切なデマを流している。と結論を下したとしよう。これは適切な読みだろうか?いや適切ではない。まず全体からしてこれは詩的文章であることがわかっている、したがってこれは文字道理解釈するのではなくて、比喩として理解すべきである、というメッセージを受け取ることができるし、そのような解釈をすべきである。ネットで言う「ネタにマジレス」というのはこういう状態の一つといえる。マンガやアニメの世界の奇妙な法則などをいちいち現実世界と対比して演繹的読解により解釈する人がいるとすれば、この意味で、その人は読解力が低いといえる。

    (3)はどういう事かというと、そもそも論理的思考力に欠けている場合または何らかの理由で想像力自体が欠如しているという状態を指す。例えば比喩に気が付かないなど。

    読解力を身に着ける方法とはここで述べたようなあるテクストに必要な読解力の種類を文脈情報から適切に判断するという訓練をすることと、論理的推論能力を身につけること、そして詩や小説などからアナロジーや比喩がどのように使われる場合が多いのかということを学習することが大切だと思う。


    読解力と誤読の関係

    さて、最後に話をするのは、以上で述べてきた読解力と誤読とがどのような関係にあるかということである。誤読には三種類あると思われる。一つ目の誤読は上記の例で挙げたように、「適切な読解力の種類を間違えて解釈する事」。


    二つ目の誤読は、「適切な読解力の種類は間違えていないが、その能力が十分でないために、適切な情報を演繹できない事」である。具体例を挙げよう「ここに1台のフェラーリがある」という文章があったとする。先ほどの原則に従えば、この文章には特別に「想像的読解」をしなければならない理由はない、したがって正しい読み方は「演繹的読解」である。さてここでフェラーリが一台あるという意味だけを読み取ったとしよう、そして誰かにこのような質問をされたとする。「車は何台ありましたか?」「フェラーリは1台ありましたが、車が何台あるかなんて言う情報はありませんでした」と。これは完全に誤読であるこの個人は読解力が低いといえる、なぜなら、「フェラーリが一台ある」という命題から「車が一台ある」という論理的帰結を演繹することは妥当であるからである、もちろん逆は成り立たないが。つまり、この場合、適切な演繹能力を欠いているという事になる。

    ここまでは読み手の側の問題で起きる誤読について話をしたが、誤読の原因はもちろんもとの文章そのものにある場合もある。これが三つ目の誤読である。例えばもとの文章が多義的に解釈できる言葉を含んでいる、文脈次第でどうにでも解釈できる言葉を含んでいる、価値判断的な言葉が含まれていて、その度合いを適切に分析することは不可能である場合などである。

    例えば「ここに身長の高い男性がいる」という文章があったとする。ここから身長が高い男性だからきっと2m位ある大男だろうと「想像的読解」をしたとする。そして後から確かめたところこの男は180cm程度だったという。この場合誤読の原因は確かに、勝手に情報不足という状態から「想像的読解」をしたという読み手にもあるが、大きいという価値判断的な曖昧な言葉を用いた作者の側にもあるのである。


    情報運用能力について。


    ではどすればこのような誤読を避けられるのかというと、このような曖昧な語を見かけた場合、できるのならば、それの意味する具体的な記述を作者にしてもらう、または、それが不可能な場合は勝手に「想像的読み」等をすることは辞めて、新たな文脈的情報を探してその意味を確定するか、その時点では判断保留にするべきである。このような判断を適切にすることができる能力を「情報運用能力」と定義する。

    情報運用能力を身につける王道は残念ながらない。経験から学ぶしかないといえる。








    海外旅行に役立つ6つの注意点

    • 2012.04.01 Sunday
    • 20:00
    をする目的は人さまざまだろう、ある人は多文化に触れることを目的に、またある人はビジネスで、またある人は現実世界から離れて別の世界へと逃避行をしたくて、旅行をするのだろう。どのような理由であれ旅をする場合トラブルはつきものである。特にそれが海外となればなおさらである。ツアーとは違ってすべて自分で準備計画をしなければいけない個人での海外旅行をする場合、場合トラブルはつきものだ。海外での旅行を国内感覚でできると思い同じような準備をして失敗したという話は枚挙にいとまがない。言葉が違うだけではなくて、慣習が違う。これから話すのは日本人がよくあいがちなトラブルを事前にどう回避するかそして、少しだけ旅行をスムーズにするために役立つ方法や注意点を幾つか紹介したいと思う。

    0.空港での手続きについて。


    一般的に言って海外便の場合搭乗一時間半前にはついておいた方がよい。
    検査などで時間がとられるし国内便と違い出国審査などもあるのでゲートに行くまでに余計に時間がかかる。
    また、利用するキャリアにもよるが、一般的に言って手荷物を預ける場合は1時間前くらいには手続気にいくべき、そうしないと手荷物を預けられなくなるし、その荷物が機内持ち込み不可能なサイズだとその便には乗れないという事も起こりうる。手荷物がない場合は最悪30分前に手続きに行っても間に合う場合はある。しかしオススメできない。また手荷物には制限の重量がありそれを超えると超過料金を取られるので事前に重量を確認しておいた方がいいだろう。また一般的に短期の滞在であればビザは必要ない場合がほとんどであるが国によっては短期でもビザが必要である場合もあるので念のためにビザの必要性有無は調べた方がいいだろう。ビザを取得する場合大体手続きから二週間くらいかかるし、面接の予約が必要になるので、ビザが必要な国に旅行をする場合は2か月前くらいから準備する方が安心だろう。アメリカの場合は滞在先の住所や電話番号が手続きの際に必要なのでメモを持参しておいた方がいいだろう。また入国カードというものを書かなければならない。これは機内でカードをもらえるのでその時に書けばよい。

    1.海外のホテルと日本のホテルの違い。

    海外と日本のホテルの大きな違いは料金と備品。日本の多くのホテルは宿泊料金は一人あたりで計算される。
    しかし海外のホテルは多くの場合、部屋当たりの値段で計算されるので、
    二人以上で旅行すると宿泊料金はかなり安めになる。逆に言えば一人で旅行をする場合は割高かもしれない。
    またホテルの備品についてであるが、海外のホテルの場合大抵歯ブラシや髭剃りは部屋にない。

    それは安いホテルだけと思われるかもしれないが、海外の場合高級ホテルでも歯ブラシや髭剃りはおいていない。
    私が以前泊まったことがある、リッツカールトンさえそうだ。これは慣習の違いと思われる。アメリカ、ヨーロッパ、アジアどこの国のホテルでも大体そう。ホテルに歯ブラシや髭剃りあるいは爪やすりなんかまで備え付けているのは日本のホテルくらいだ。

    2.コンセントの違い


    国によってだがコンセントの形が違うのでコネクタを事前に用意した方がいいだろう。ホテルなどでも売ってるが高いので事前に家電量販店でそろえた方がいいだろう。アメリカの場合は必要ないが、ヨーロッパの場合英国・アイルランドが3つの爪の形のコンセントでそれ以外のヨーロッパは丸型なので別々のコネクタが必要である。

    3.公共交通機関の使い方の違い。

    日本人の多くが戸惑うのがおそらく公共交通機関の使い方の違いだろう。
    中国、韓国、台湾、や他のアジアの地域の地下鉄などは割と日本と似ている方式の場合が多いがアメリカやヨーロッパは微妙に異なる場合が多い。例えばアメリカでは入る時は切符が必要だが出るときは必要ない(短距離列車の場合)し、ヨーロッパのある国では改札自体が無かったりする、しかし、これは切符が必要ないというわけではないので要注意。また家族で良好する場合ヨーロッパの幾つかの国(フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ等)では大家族(多くの場合3人以上子供がいる家族)の場合一人あたりの交通費は大幅に割引されることがある。

    4.チップについて。

    これは国によって違うので事前に調べておいた方がいいだろう。
    アメリカやユーロッパの場合サービスに対してチップが必要な国は多い。
    それに対してアジアの場合は日本と同じで必要なかったりする。
    要注意なのが中国。中国はもともとチップはいらなかったのだが、
    最近は観光客にチップを要求してくる、中国人がいるらしいが、払う必要はない。

    5.現地の観光局について

    実際に旅行をする際にまず訪れるべきなのは観光局。
    特にアメリカやヨーロッパの場合は大都市や観光地の場合ターミナル駅(多くの場合○○中央駅であるが)
    のすぐ近くに観光局が隣接している場合が多い。
    この観光局では詳細な地図や路線図あるいは現地の観光スポットに関する情報が得られるだけではなく、
    お得な切符なども買うことができる。全公共交通機関一日乗り放題+美術館や博物館の割引チケット+飲食店の割引チケットなどまでついている場合が多いのでオススメ。

    ここで上げた6つの注意点はとても基礎的なことに過ぎない、
    実際に旅をしてみるとここで挙げられていない多くのトラブルに見舞われることもあるかもしれない。
    しかし、そのトラブル予測不可能なイベントというのもまた旅の醍醐味といえるのではないだろうか。
    どのような目的であれ、当初の目的と、想定外のトラブルとどちらも楽しむことができれば、
    あなたの旅は特別な人生の一ページを彩ることになるだろう。






    岩波書店のケースを例に縁故の種類と縁故採用のメリット・デメリットについて考えてみる。

    • 2012.02.12 Sunday
    • 09:53
    岩波書店が応募条件に岩波著者または店員の紹介というのを課したいわゆる“縁故”採用を先月発表していた。それに対して厚生労働省がこの採用方針に法的な問題がないかどうかを調べるという事態になっていった。しかし、実際に厚生労働省が調べた結果、法的には何ら問題がないとのことだった。

    岩波書店がこのような応募条件を設定した理由は採用コストの削減という事が大きいだろう。というのも、実際の採用人数、数人に対して応募者数は1500人程度に上る。岩波書店の社員数は300人程度で、採用に割ける人員や資金などを考えると1500人もの人員をチェックするというのは非常にコストパフォーマンスが悪いと思われる。

    なので、あらかじめあのような応募条件を設定することにより応募者数自体を少なくしてしまえば、はるかに効率の良い採用ができると岩波が考えるのは当然であろう。もう一つ岩波側の利点としては、このような条件を採用することで、モチベーションの高い社員を採用することができる(もともと縁故があればいいが、ない場合は積極的に人脈を作らなければならないので)と考えている点である。

    これらの点が岩波側が考えるこの採用方針のメリットである。では学生にとってこの方針はどのようなメリット・デメリットがあるのだろうか。まず明らかなデメリットから上げれば、このような応募条件を課されたことで、初めから縁故がある学生が有利で、縁故がない学生が不利になるという機会の不平等というのがそれである。

    しかし、こういう意見も考えられるだろう、いや岩波書店の店員や著者を見つけるのなんてそれほど難しくないし、岩波の本を一度でも読んだことがある学生なんて多いだろうし、それならば、その読んだ本の著者に直接コンタクトなどをとればいいではないか?というナイーブな意見も聞こえてきそうだ。

    私がこの意見をナイーブだと思う理由は、確かに、そのようにコンタクトをとることはできるだろう。しかし、コンタクトをとるという事はその分ある程度の時間も必要だし、著者と会ったりするわけだから食事代や交通費などの費用がかかるだろう。つまり、初めから縁故がある学生に比べて、この応募に対して余計に時間的・金銭的な負担を強いられることになる。それならば受けなければいいだろうという意見も出てくるだろう。しかし、この意見は全く反論にならない。というのも、問題は受ける受けないとか、効率性とかそういう話ではなくて、初めからある学生が有利である学生が不利になるという点にあるからである。

    では、私は縁故採用は絶対反対なのか?と言われれば、それは違うと答える。私は岩波のこの採用の仕方には大いに問題があると思うが、ある種の縁故採用にはそれほど問題がないと考えている。ではなぜこの採用方法が問題が大きくて他の縁故採用方法はそうでもないと考えられるのだろうか。

    それは縁故の種類による。この採用が不平等な縁故採用だと思われる理由は、縁故を必要と言ってもそれが初めからある人達が存在しているという点である。これが例えば大学院を受ける場合に教授の推薦書が必要という意味での縁故採用との違いである。あるいは、多くのアカデミックポストで行われる縁故採用との違いである。

    この両者は何が違うのかというと、大学院などを受けるのに必要な教授の推薦書を得るためにはすべての人がある程度それを得るための努力を行う必要がある、つまり、初めから大学入学時から教授の推薦状をもらえている、それを得るために「何もしなくていい人達」はいないわけで、縁故と言っても、それを得るのは本人の何らかの努力の結果として評価されるべきものといえる。アカデミックポストでの縁故も同様だ、ある教授の推薦などで何らかのポストが得られる状態があるとしても、結局その教授にある程度認められ囿為の何らかの努力をしなければならないわけで、何もしなくても初めからある縁故ではないのである。

    つまり縁故と言っても大きく分けて二つあって、「本人が何らかの努力をした結果獲得した縁故」と「本人の資質に依存しない縁故」というものがある。岩波の縁故は明らかに後者に近い。なぜなら、学生が岩波著者と知り合いという状況は、おそらく自分の家族あるいは親戚がその人を知っているという場合がほとんどであろう。

    つまり、本人の資質や才能故にできた縁故ではない縁故を持っている人たちが多くいるので、この採用方針だと、機会の不平等といえる、それが本人の努力の結果による差ではないので。アカデミックポストなどや教授の推薦した企業に入るなどという場合の縁故は多くの場合、本人の努力が認められた結果であると考えらまたそれを得るための機会は平等だといえるので、そこまで不平等とは言えないし、さほど問題があるとも思えない。「親のコネ」といわれるものは明らかに後者といえる。

    問題は縁故採用がいいか悪いかではなくて、どちらの縁故採用なのかである。また一般的に、岩波に限らず、私は仮にその縁故が後者の意味での縁故で採用を行っている企業があったとしても、(もちろん縁故なら前者の縁故の方が好ましいのではあるが)解雇する時の条件さえ縁故と縁故でない採用の間で平等にしておけばそれほど問題がないといえる。縁故でとった人材だからダメでそうでない採用でとった人材だから大丈夫というわけでは必ずしもないので、もしかしたら縁故でとった人材の方が使えるかもしれないし、そういうことはたびたび起こり得る。例えばアカデミアの世界ではむしろそういう縁故採用の人材の方が使えたりする。

    だから、本当は私は岩波の場合も両方の採用をありにすればよかったんだと思う。縁故採用枠とそれ以外の枠と。そうすれば縁故を持っていない人にも不利にならないし、縁故採用枠を設けることである程度の応募者を減らすことができる。私は両方を組み合わせた採用の方がより多様な人材を確保するのに役に立つと考えているので、縁故と縁故でない採用の両方の比率が極端に偏りがない場合はそこまで批判する必要はないと思う。逆に言えば今回の様に縁故だけというのは批判されても仕方がないケースと思えるけど。

    ただ、この応募条件のメリットもあって、初めから縁故がなくかつそれを作ろうとは思わない学生は、岩波を受けないという判断を事前にできるので、就活の際に時間を他の企業に割けるという意味ではメリットといえる。そういう意味では縁故が必要ですよと初めに宣言している岩波はこの観点から言えば、縁故と明言しないで縁故採用を行っている他の企業と比較すれば、むしろ親切ともいえる。

    結論としては、この縁故採用には岩波側にも学生側にもそれぞれメリット・デメリット双方があるという事である。そして、私は縁故で採用すること自体には反対ではない、が同じ縁故ならば、本人の資質によって認められるという種類の縁故の方がより問題が少ないと考えているし、また、採用も縁故だけではなくて、非縁故型の採用も残しておくべきだったと考えている。

    「文明論の概略」から読む大学のグローバル化と二つの国際化について。

    • 2012.01.24 Tuesday
    • 12:03
    最近発表された東京大学の秋入学以降の話が世間の耳目を集めている。東京大学のHP
    http://www.u-tokyo.ac.jp/gen02/fall.enrollment.htmlに書かれていることを要約すると、今回の措置は東京大学の二つの戦略を達成する為の手段と位置付けられていることがわかる。2つの戦略とは、「タフな東大生の育成」「グローバルキャンパスの形成」である。「タフな東大生って何?」というツッコミはを入れたくなる気持ちはわかるがそれは後程。そしてこの文によれば、なぜそれが必要なのかというとここで議論されているのは国際的ハーモナイゼーションを図るために、そして国際的競争力をつけることが目的とされている。またここで議論されている国際化の意味ついてももう少し議論してみたい。ここで浜田総長は国際化を“いわば砦に柵を構えたままで時おり外に出ていくような国際化ではなく、柵を取り払った大平原の上で自らの独自性と能力を存分 に発揮し、世界の有力大学、それらの学生たちと日々切磋琢磨し合うような環境を強化すること”と定義している。今回の措置はこの意味での国際化への一歩を踏み出したいという事であろう。これが一応東京大学の今回の措置への背景と理由説明である。

    さて、この説明で何が言いたいのかよくわかっただろうか?おそらくほとんどの人が抽象的すぎて何が言いたいのかよくわからないという感想を持ったであろう、何を隠そう私もその一人だ。この文の中で特に意味不明なのは「タフな東大生の定義」や「国際的ハーモナイゼーション」「グローバルキャンパス」だろう。これらの言葉が定義なしに使用されていて具体的には何を意味するのか明瞭ではない。であるから、これからこの抽象的な言葉の意味について考えていくことにする。その為には日本の大学国際化の歴史を少し振り返ることが助けになると思われるので振り返ってみることにする。その前にまず大学の国際とは何か?大学のグローバル化とは何か?という基礎的な概念についておさらいしておくことにしよう。意外とこの概念が紛らわしいので。

    先ずグローバル化とは何かというと人・モノ・カネの移動を自由にして国境が何の意味も持たないボードレスでコスモポリタンな社会を目指して以降とする理念である。この理念が経済的な意味で用いられればそれは当然自由貿易の促進という意味を持つ。そして、この考えを世界中で共有しようという話である。ではそれが大学に適用されればどういう意味になるのであろうか?

    大学のグローバル化を定義すると以下の4つの条件を世界各地の大学が見たしていく状態を指すと思われる。(1)世界各地の大学の人材交流の活発化(2)各国の取得学位の互換性(3)学術ポストの自由化=学術ポストを全世界の研究者に平等の機会が与えられること。例えば日本であれば、日本人であることが理由で採用されることなどあってはならない。つまり研究業績による評価の徹底という事になるだろう。(4)(1)〜(3)を満たすためには当然共通言語の英語は不自由なく使用できなければなrないし、研究における特殊言語による障壁をなるべくなくしていかなければならないといえる。

    浜田総長が曖昧で抽象的な言葉で表現していたのを私なりに定義すると先ほどの様な意味になる。あの定義の中に先ほどの言葉「タフな東大生の定義」や「国際的ハーモナイゼーション」「グローバルキャンパス」はすべて含まれている。つまり、「タフな東大生」とはあの意味での大学のグローバル化に対してよく適応できる能力を持っている東大生という意味であり、「国際的ハーモナイゼーションとは」(1)〜(4)の意味そのままであり、グローバルキャンパスの形成とは(1)〜(4)を実行する為の設備や制度を整えていくという事である。

    次に国際化とはなんだろうか?というとこれは大きく分けて二つの意味が考えられる。1つ目は国内の制度をグローバル化に適応させる形で変革していく。日本が有史以来ずっとやり続けているのがこの意味での国際化。漢字の導入然り、律令制度の導入然り。そして当然明治期の西洋文化の包摂然り。これは便宜的に内向きの国際化と呼ぶことにする。日本ではこればかりが行われてきた。しかし、国際化という言葉にはもう一つの意味があって、これはアメリカやヨーロッパ諸国が主に使う意味での国際化。これを便宜的に外向きの国際化と呼ぼう。外向きの国際化とはどういう事かというと、グローバル化に対する適用として、その共通の基準を自国の文化に対して有利になる様に国際社会に働きかけるという事である。グローバル化を推進するアメリカがなぜ国内がガラパゴスなのかもこの外向きの国際化という概念を使えば矛盾ではないという事がわかる。例えばかつてのフランスはメートル法の導入という事を世界に働きかけてそれを世界標準としたし、英国は英国で世界中に植民地を持ち英語を国際語にする=植民地諸国を国際化させたし、近年のアメリカであれば、例えば貿易のルールをアメリカが敷いた路線で世界各国が議論している。だからグローバル化はアメリカ化と同義といわれるのも当然である。その功罪は今日のメインテーマではないからおいておくとして、浜田総長が発言してた意味での国際化はこちらの外向きの国際化という事だと思う。じっと待ちながらたまに外に出ていくのではなくと言っていることからも分かる様に。

    これでようやく東大の意図が見えてきたと思う。つまりこの意味でのグローバル化を目指していて、その手段として外向きの国際化を目指していますよ、そしてその手段が「タフな東大生の育成」であり「グローバルなキャンパス」という事である。この理念は分かった。では次は、その為の手段として秋入学は適切なのかどうか?という事である。

    結論から言うと、それは適切ではない。というのも、より適切な方法があると思われるから。先ほどの議論から東大の目的が外向きの国際化であることが分かった。ではどうするか?私は今すぐにでもできそうなこととして3つの事だけを提案したい。
    (1) 秋入学ではなくて入学・卒業時期の選択制、そして当然入試も年に二回行う。秋入学にすることで東大が期待したのが留学生の受け入れを容易にすることとギャップイヤーの活用だった。しかし、前者はいいとしても後者は必要のない生徒にとっては単に金銭的な負担が大きいのではないだろうか。半年間留学したりボランテイアをさせられる家庭はいいがそうでない家庭はたくさんあるわけで、そういう生徒にとっては春入学した方がよっぽど利益になる。だから秋入学はいいとしても入学の選択肢は残しておくべきだ。(2)外向きの国際化を謳いながら東大の現状はどうなのか?というと、東大に留学する外国人留学生と東大から外国に留学する学生の比率を見てみると3:1である。 http://www.oice.t.u-tokyo.ac.jp/exchange/result.htmlこれはどういう事かというと、キャンパスには外国人を呼び寄せているが外国に留学生を積極的に送り出そうとしていないという事がわかる。私は東大はこの比率を1:1程度になるような工夫をすべきだと思う、それは例えばスカラーシップの拡充、生活費の一部免除など。

    そうでなければ外向きの国際化などできない。しかも東大に留学してくる外国人はその後その国に帰ってしまうことが多いので折角彼らがキャンパスに短期間在籍したとしてもそれほど大きな影響を及ぼせない。逆に東大から留学生を外国にたくさん送り出せば彼らが帰って来ればその経験などをたくさん学内に還元してくれるし、彼らは日本で生活することが多いだろうから、日本社会全体の国際化に長期にわたって役に立つ。この二つの措置をすることで上手く外国人留学生を増やしかつ多くの交換留学生を送り出す工夫をすべきだ。

    私がここで具体的な制度の変更ではなくて学生のグローバル化から話したのは、結局キャンパスの学生自体がグローバル化をしてしまえば制度はそれに合わせざるを得なくなる。だから、学生のグローバル化=精神的な意味でのグローバル化の方が優先されるべきである。逆に制度をいくらグローバル化しても学生がグローバル化されなければ何の意味もない。日本がグローバル化と考える場合このように制度を精神よりも先にしてしまい肝心の精神が寛容されないということが多い。明治以来取り入れた制度が未だに機能していないのもこの理由である。福沢は慧眼にもこのようなことが起きることを見越していた。「文明論の概略」でこのように書いている。

    「...故に云く、欧羅巴の文明を求めるには難を先にして易を後にし、まず人心を改革してついで政令に及ぼし、終に有形の物に至るべし。此順序に従えばことを行うは難しといえども、実の妨害なくして達す可きの路あり。此順序を倒にすれば事は易きに似たれども、其路忽ち閉塞し...寸歩を進めること能は...
    或は寸を進めんとして却て激して尺を退くることある可し。」

    福沢はこのように文明を取り入れたいのなら制度や法律よりも前に人身を変革することが肝要だとといた、まずは人の意識を変えることが大切。そうすれば、それは制度を変えるよりも難しいが最終的にはその方が上手くいくと。これは今の国際化議論にもあてはまるのではないだろうか?つまり、外に留学生を送り出して、その意識が変わった学生をたくさんキャンパス内に確保することができればそのうち制度もそれに合わせて変わっていくだろうと思われる。だから私も制度よりもとにかく留学生を外に出すことが大切だと思う。

    国はこの辺の外の意味での国際化の意味をあまり理解しとらず留学生30万人計画など国内に留学生を受け入れる内向きの国際化ばかりを唱えているように思える。私は今回の東大が外向きの国際化の為のモデルケースになりうることを期待するばかりである。その上で参照すべきは欧州において行われた外向き国際化計画エラスムス計画だろう。同計画が示唆するように人材交流は一方的であってはいけないと思う。だから東大は受け入れと送り出しの比率を1:1近くまで持っていくべきだと思う。

    (3)それと同時に留学生の出身国がもう少し多様化するように工夫すべきだと思う、留学生のうち92%がアジアという現状は多様な文化を受け入れているとは言い難い。例えば北米からの留学生はたったの1%に過ぎない。逆に東大生の留学先のうち50%以上が北米だ。これは人材交流を考えた場合にあまり健全とは思えない。もう少し北米から留学生数を増やして日本の文化を海外に紹介するべきだ。また福沢が述べている様に、各文明にはそれぞれ優れた制度や習慣があるのだからそれは上手に残していけばいいと思う。日本の文化でもグローバル化に役立ちそうなものはあえて変えずに残していき、それを世界に発信することが大切だといえるだろう。何でもかんでもアメリカ化する必要はない。

    参考資料
    東京大学http://www.u-tokyo.ac.jp/gen02/fall.enrollment.html
    http://www.oice.t.u-tokyo.ac.jp/exchange/result.html
    福沢諭吉「文明論の概略」

    大学入試センター試験は受験者の利益になっているのだろうか?

    • 2012.01.19 Thursday
    • 05:39
    大学入試センター試験は受験者の利益になっているのだろうか?

    大学入試センター試験は受験者数555,537人に及ぶ試験である。その試験は国立大学志願者はもちろんの事、センター試験の結果によって合否判定を行う私学あるいは、その結果の一部を合否判定に用いる私学があるなど、非常に多くの場面に用いられる。それ故に、その試験がその結果を利用する受験者の利益に適っているかどうかを検討するのは非常に有益なことに思える。私は今のセンター試験はあまり受験者の利益になっていないと思うので、それを改善する為の試案を幾つか提案したい。私が改善すべきだと思う点は3つある。(1)受験料の引き下げ。(2)試験回数の増加。(3)試験受験時期そして試験結果の利用できる年数の柔軟化。

    (1)がなぜ問題になるのかというと、センター試験の受験量は極めて高額であるからである。例えば3科目以上の場合その受験料は18000円である。それに対して3大予備校のセンター試験プレテストの受験料は、おおむね4000円前後に収まっている。プレテストであるから主題形式もほぼ同じだし、センター試験受験者の多くが受けると思われるので、採点人数もさほど変わらないと思われる。それにもかかわらず4倍以上もの受験料を徴収するというのは極めて非合理的に思われる。

    なぜセンター試験がこれほど高コストなのかというと、理由は二つある。1つ目の理由、それはセンター試験を実施する母体が独立行政法人大学試験センターによって行われており、多くの職員の人件費に消えているという事。なぜなら、独立行政法人なので官僚の天下り先になっている。センター試験を私大にまで利用させている目的の一つは結局天下り先を確保しておくという理由に他ならない。2つめの理由は、独立行政法人という組織の性質上何かを委託する場合に随意契約の割合が全体の46%ほどにも上り金額ベースだと全体の75%が随意契約によって支払われている。競争入札は全案件の54%程度だが金額ベースではわずかに25%に過ぎない。如何に随意契約が高額であるかがわかるだろう。

    私はこの独立行政法人の職員数の見直しをするべきだと思う。それに加えて随意契約の多くを競争入札に変えるべきだと思う、それでだいぶコストを下げることができる。民間が4000円前後でできているのだから、これくらいの値段でできるように努力すべきだと思う。

    (2)であるが、私が複数回受験を可能にすべきであると言っている理由は、例えばたまたま試験前日に風邪をひいて思うような実力を発揮できないという事が起こり得る事態をなるべく減らすべきだと思うからである。例えば年に3〜4回ほど実施して、その中で一番いいスコアを提出させるという形式にすれば、風や体調不良あるいは予期せぬ怪我故に受験できなくなったなど、これらの不測の事態故に実力を発揮できずに浪人せざるを得なくなって、余計にお金がかかるという金銭的負担を減らすことができる。1年予備校に通うためにかかる費用は複数回のセンター試験の受験量など問題にならないくらい高い。また先ほど提案したようにセンター試験の受験量を下げられればこれまでと同じ費用で3回くらいは受験できる。また複数回の試験を実施することによって例えば3年生の春先に一回目の試験で満足する結果を出すことができたら、もうそれでセンター試験の勉強をしなくて済み二次試験対策をほぼ1年間かけて行うことができる、この時間的な余裕は大きい。

    (3)であるが、このアイデアの拡大版で、私はこの1年で4回くらい実施するという事だけではなくて、センター試験を受けられる時期も自由にすべきだと思う。どういう事かというと、例えば高校生1年生でも受けられるようにする。そうして試験結果の有効年度を二年間などにする。仮にそういう風にすれば、1年生の終わりに例えばセンター試験を受けたとする。そこで満足な結果が得られれば、もう二年からセンター対策を行わなくて済み二次試験に集中することができる。有効年度を二年間にするという事の利点はもう一つあって、それは浪人生の負担を減らすということである。例えばセンター試験は上手くいったが二次試験が上手くいかなかったという人がいたとして、もう一回センター試験を受けるという事をしないで済む分二次試験の勉強を重点的に行うことができる。

    私はこの3点の改革を行うことですべての受験者の利益の為になるようなセンター試験のあり方を独立行法人大学入試センターは考えていくべきだと思う。それがセンター試験が「国民生活及び社会経済の安定等の公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務及び事業」であることを外部に示すことにもなるのだろうから。受験者の利益にならないような試験であれば、その存続理由が問われることになる。

    参考資料
    河合塾http://www.kawai-juku.ac.jp/moshi/zento/jukenryo.html
    駿台予備校http://www.sundai.ac.jp/yobi/moshi/index.htm
    大学入試センターhttp://www.dnc.ac.jp/
    代々木ゼミナールhttp://www.yozemi.ac.jp/test/moshikomi/index2.html?moshikomi

    ツイッターでの炎上に関する7つの法則 :如何に人災を避けるべきなのか?

    • 2011.12.14 Wednesday
    • 13:43
    ツイッター上では、もはや、お約束となりつつある炎上。ツイッター上での炎上というのは、ある個人が処理・あるいは対応しきれない数のリプライが特定の時間帯に集中的になされる場合を意味すると思う。

    だから、炎上というのはそれを眺める第三者がどう思うかは別として、基本的にはその個人の主観や能力に大きく依存する現象といえる。炎上といってもいくつかの種類があって、ツイッター上だけでの炎上という場合もあれば、ツイッターの外部、例えば2chなどでも同様に炎上状態が続いているということもあり得る。

    2chでの炎上とツイッター上での炎上は似て非なるものである。2chでの炎上あるいは祭りというのはその言葉通りである特定の狭い空間での騒ぎであるといえる、あるスレ内での出来事でそれを見学したければその祭りに参加しなければならない。

    しかし、ツイッター上での炎上というのは祭りというレベルの話ではなくて、山火事といえる。第三者がその現場に行かなくてもどこからでも見学することができる。また2chの場合レスが1000を超えると倉庫行きだが、ツイッターの場合はそういうわけでもない、無限にツイートがRTされていつまでのそれが流れ続ける。

    またとても開かれているメデイアなので、同じネタを議論していても2chで倉庫行になるよりも、ツイッター上で1000RT行く時間の方がはるかに短い。

    ツイッター上ではフォロワーが多いアカウントであれば常時数千人あるいは数万人に対して情報を発信しているので、それが炎上物件だとその被害は2chの非ではない、むしろそれがさらに2ch行きというのが最近のパターンである。

    ツイッター上で炎上→2ch→ミクシイで個人情報特定の流れは、ある種個人情報特定の“セントラルドグマ”といえる。つまりツイッター上での炎上というのは場合によってはそれだけで済まない場合が多々見られる。

    ここでのテーマはこのような現象の背景でも分析でもない(それは別の機会にしてみることにする)。そうではなくて、私がツイッター上の観察と実験した結果からある程度見えてきた炎上の法則について話をしたいと思う。これは、どのような発言が炎上しやすいかというあくまでテクニカルな話をしようと思う。


    炎上するパターンというのはランダムではない。炎上は人災である。明確なパターンがあるのでそのパターンを知れば多くの場合避けられる。かなり明確なパターンがある。それを幾つか上げてみることにする。本当かどうか知りたい人は各自で実験してみてください。(あまりすすめませんが)

    炎上パターン、これらは必ずしも独立的ではない。場合によっては同一の減少が複数のパターンに分類できる場合がある。またこのパターンはネット上に限らず見られる傾向である。

    1.炎上で一番多いのが、犯罪告白。例えば未成年でタバコを吸ったとか飲酒したとか、酷いのになると飲酒運転した等。このパターンで炎上した人の数は多すぎてわからないくらい。東大生飲酒事件など。

    2.反道徳的行為の告白またはその自分の価値観を根拠なく押し付ける発言。これの顕著な例は、“ブスを守る会事件”や東浩紀教授のクラスの生徒がカンニングしたという告白をツイッター上でした事件。当然のことながら東氏は即座に発見した。あるいは、ファーストフードや居酒屋などでの“イタズラ”告白など。あるいは職を失ってしまった例のアディダス社員の事件。“ツイットクリエーター”の“無償で働け”という発言はこれにあたる。あるいは「フォロワー数の少ない方は多い方に敬語を使え」というのもこれにあたる。

    3.属性から予測されると思われる(勝手に他者がそのように推測している場合も含む)るべき行動や規範意識から著しく乖離した発言。別名“お前が言うな”、“お前がやるな”話法。
    例えば、なぜ同じ犯罪告白でも高学歴者と低学歴者の炎上度合いが違うのだろうか?といえば、人々が勝手に高学歴者は道徳的にも低学歴者よりも優れていると根拠なく盲信されている場合が多いので(実際はモラルで入試をやるわけではないのだが)同じ犯罪行為を犯した場合でも不平等だがFラン大学の学生よりも東大生が犯罪を犯した方が炎上する。もちろんそれだけじゃなくて、それには、ル・サンチマンも含まれてはいる。

    あるいは、おとなしいように見えた人が犯罪を犯す方が、暴走族が犯罪を犯すよりもニュースになりやすいというのも同じ現象。この場合もおとなしいという属性が暴力を想像させないにもかかわらず犯罪を犯すということで予測される行動とのギャップが大きいゆえに話題になりやすい。あるいは逆に、不良がいいことをすると、普通の人がいいことするよりも注目されやすいというのと同じ現象といえる。

    4.ある特定の集団への主観的なステレオタイプの発露または、勝手な思い込みを基に他者を攻撃する発言。童貞は○○など。○○には多くの場合マイナスな言葉が入る。これも他のパターンと組み合わさる場合があるが、その場合の炎上確率は相乗効果で極めて高くなる。
    5.マリーアントワネット話法。
    パンがないならお菓子を食べればいいというアレ。これを応用する場合もかなりの確率で炎上する。よくある例は、「就職できないなら起業すればいい」というやつ。XできないならYすればよいとの文脈でXよりもYの方が困難が伴う動作や態度がそこにある場合このパターンに該当する。いわゆるツイットクリエータという人が毎回呟いている多くの発言がこれ。
    6.主観や経験の過度な一般化あるいはその主観の根拠が陰謀論の場合。
    ○○は甘えというのがよくあるこのパターン。
    ○○人は△△というのをネタではなく且つ文化ではなくて個人の性格として言及している場合などがそれにあたる。元国連の某職員が炎上している理由は大体これ。本人はもちろんわかってて商売の為にやってる確信犯。いわゆる炎上マーケテイング。

    7.ツイッター上の有名人に晒される場合。これも炎上確率が高い。
     フォロワー数の多いアカウントに話しかける場合は注意が必要。いつ晒されるかわからないので。

    以上が炎上の7つの法則です。これ以外にもあるかもしれませんが、少なくとも私がツイッター上で実際に実験してみて炎上確率が高かったパターンがこの7つだったということです。

    ある劇的なデータを公開しますが、これは私が1のパターンじみたことを紹介した時にある人がコピーをしてそのままツイートしたところ10分で350RTを超え30分前後で1000RTを達成しました。上記のパターンに当てはまる言説をすればそれくらい簡単に炎上します。

    以上のパターンに分類される発言は炎上確率が高いのでそれを自覚しながらする必要があると思います。炎上はランダムには起きないので、気を付けていればある程度防げますし、むしろこれらの発言で炎上を意図的に引き起こすことができます。そのような自覚がないままナイーヴに発言をしていると、ツイッターを馬鹿発見器として機能させることに協力してしまうだけになるので、ご利用は計画的に。

    1両だけの女性専用車両に反対する理由。そしてアファーマティヴアクションとしての男女専用車両について。:痴漢被害をどのように減らしていけるか。

    • 2011.12.13 Tuesday
    • 11:43
    1両だけの女性専用車両に反対する理由〜そしてアファーマティヴアクションとしての男女専用車両そして誰でも車両の導入について〜痴漢被害をどのように減らしていけるか。

    結論を先に纏めておくと、私は1両だけの女性専用車両に反対である。そうではなくて、アファーマテイヴアクションとして、通勤通学時間帯の朝7〜10時の痴漢多発時間帯に、偶数車両を女性専用車両、奇数車両全てを男性専用車両にすべきだと考える。そして車両数が奇数の場合は先頭車両を、性別に関わらず(男女あるいはそれ以外のセクシャリテイの人)が乗れる車両(誰でも車両の導入)にする。

    そして車両数が偶数の場合は先頭車両と二両目を同じく誰でも車両にすればよいと思う。また障害者と介助者のジェンダーが異なる場合は、どちらかのジェンダーに合わせて乗ればよいと思う。そしてそのこのAAをとる場合以下の条件を必要とする。

    30年限定の時限または、痴漢の認知件数が1/20程度、つまり、男性と同程度の痴漢認知件数に下がったらこの「隔離」措置を解除すべきだと思う。そして、この措置を解除しても痴漢認知件数が上昇しないように教育(性犯罪がヘイトクライムであるという認識の共有)・司法制度(痴漢に対する法律の厳罰化)の改正、そして何よりも痴漢の元凶となっている満員電車の解消を求める。30年あればできると思う。これらの条件をすべて整えた上で、私は偶数車両全てを女性専用車両、奇数すべてを男性専用車両そして、誰でも車両の導入するというAAを行うべきだと思う。

    またこの男女専用車両、そして誰でも車両の比率は常にその利用者数に応じて変更されるべきだと考える。また通勤時間帯でも、著しく混んでいない車両が女性専用車両にあるとするならば、その車両の女性による反対の声がない限りは、「女性」以外のセクシャリテイの人がそれを利用するのも認めていいのではないかと思う。「隔離」を原理主義的に行うのは「差別」である可能性があるので、それくらいの柔軟性は認められるべきだと思う。



    女性専用車両についてどう考えるかというのは、常に大きな論争になってきたテーマである。このテーマが論争的なのは、しばしば、賛成、反対両陣営が互いのその理由について大きな誤解をしているということがあげられる。簡潔に言えば、女性専用車両の導入の正当化は以下の前提全てを認めれば賛成派で少なくとも一つを否定すれば反対派ということになろう。
    (1) 痴漢は非常に深刻な性犯罪であり即座に何らかの対策が講じられるべきである。(2)その有効的な対策として今、運用されている女性専用車両は効果的である。(3)その対策を行うに際して予想される不利益は仕方がないから有無を言わず許容すべきだ。

    ここでしばしば誤解されるのが賛成派が反対派として想定しているのがこれらの前提のうちすべてを否定する人達であることが多い。この誤解によると、確かに、女性専用車両を認めないのは痴漢を大した問題と思っていない、あるいは、そのような問題をなかったことにしたい立場のセクシストということになるのだろう。私がこの議論でいつもおかしいと思うのは、この問題がなぜか「女性」のアクセス権の話に矮小化されている点である。これは全くの見当違いだと思う。

    この問題は「女性」という特殊な利害集団に対して特殊な利益を与えよという話ではなくて、自由の平等性という観点から考えた場合に、著しくそのアクセス権を奪われている集団が社会に存在しているという話で、「女性」はその不遇なグループの一つに過ぎない。であるから、この問題は自由の平等性に対する非対称性一般に関する議論でなければならない。つまり、「女性」のアクセス権だけが語られべきではなくて、同じように不利益を被っている「障害者」や男性ー女性という分類では定義できないセクシャルマイノリテイーに対してのアクセス権についても語られるべきだ。

    「女性」の権利の回復の為ににこれらの人達の利益が損なわれてはならない。そうではなくて、このような不利益を被っている人たち全てに対して権利の回復の為の措置が行われるべきである。今回の論考は焦点を女性専用車両に絞っているので、メインになる議論は男ー女という軸を中心に議論を進めるが、私はその他の人達の権利を無視しているのではなくて、むしろこれは特殊グループの問題ではなくて自由の不平等性に対する「正義」が問われている問題だと思う。したがって、メインテーマではないが、「女性」以外に平穏なアクセス権が侵害されているグループに対しての対策や、AAで生じるかもしれない不利益をどう減らしていくのかも議論するつもりである。

    しかし、そのような意味での反対派というのは非常に少ないと思う。多くのアンケートが示している様に男女とも女性専用車両の導入自体には反対という意見は少ない。
    アンケートにもよるが、おおむね女性は77〜80%前後が賛成で男性は60〜70%前後が賛成である。1そして(1)に対して反対と思われる女性専用車両反対派もごくわずかだと思われる。

    では反対派は何が反対なのか?というと(2)や(3)についてだと思われる、つまり理念に対してではなくて、その運用方法や実際の効果について疑問がある故に反対という立場の人が多いと思う。私は(3)は許容できない。私にとってはこれは正義の問題なので、「女性」という特殊集団の利益を回復するための措置をとる場合でも、同様に不利益を被っている障害者や他のセクシャリテイのグループに対する配慮が欠けてはならないと思う。このような理由で私は1両だけの、そしてAAの条件を満たしていない、「正義」ではなくて、特殊集団の利益拡大の為のように見える現在の女性専用車両という制度に反対するのである。

    私の立場も(2)と(3)については賛成とは言えない。(2)について簡潔に言えば、今、首都圏や関西のJR、地下鉄、私鉄などで導入されている“1両だけの女性専用車両”による痴漢対策効果は十分ではないと思う。私の考えはさらにラデイカルで、1両だけの女性専用車両ではなくて、偶数を女性専用車両、奇数を男性専用車両にするべきということである。つまり、私が反対なのは1両だけの女性専用車両ということである。また、この措置をいつまであるいはどのような目標を達成するまで行うのか?が明確になされていないという点である。これは後程考察することにする。

    そして、それ以外にもすべき対策があるはずでそれをしないで女性専用車両だけで解決できるとは思わないというのが私の考えである。それ以外の対策とは(1)教育で、性犯罪がヘイトクライムであるという認識(なぜなら性犯罪の被害者の95%以上は女性)を十分に社会全体で共有することや、そしてその他には(2)痴漢を罰する為の迷惑防止条例ではない代替となる法律の制定というのを考えるべきだと思う。(多くの場合痴漢者に強制わいせつ容疑を適用することは困難なので)2迷惑防止条例は、その罪の与える損害や影響に対して軽すぎるというのが私の印象である。また、そのような法律の策定が、社会の痴漢に対する認識を変えることができると考えている。そして最後に一番重要なのは満員電車の解消、これなくして痴漢対策は不可能。

    (2) についても、私はこの女性専用車両という措置が女性のアクセス権確保の為のアファーマテイヴアクションと考えているので、その要件を十分満たすべきだと思う。つまり、これが女性にとって被っていた損害の回復をもたらす対策であるからといって、それによる不利益は不問にされてよいとは思わない、私はこの不利益を最小限にしながらも女性の利益を守る方法を提案したい、つまり、私もこの女性専用車両が考案された背景や理念に反対しているわけではない。これが今回の記事の大まかなスケッチである。また冤罪についても必ず上がる話題だが、私は冤罪の問題は痴漢冤罪に限るものではないと考えている。これは司法全体の問題に思える。

    つまり、“男を陥れる為の女”がたくさんいるとは全然思わない。たしかに、そういう人もいるかもしれないが、ごくわずかで他の冤罪で起こりうる冤罪の発生件数それほど統計的に差異があるとも思えない。つまり、私は冤罪の問題は司法システムの一般的な問題の一つに過ぎないと考えている。

    なぜなら痴漢だけでなくて札事件でも冤罪は起きるし、今年で言えば村木氏に対する事件なども挙げられる。つまり、特に痴漢という犯罪に対して陥れる女が冤罪を大量に捏造しているという議論はあり得ないと考える。それが正しいとしたら、冤罪は痴漢に対してだけ起きているという証拠が必要だが、それは今上げた例ですでに反駁した。
    これがこれからの議論の主な概要である。

    (1) なぜ痴漢は重大な性犯罪ですぐにでも対策が打たれなければならないのか?
    痴漢というのは性犯罪の一つである。そして性犯罪がヘイトクライムであるから、これを放置しておくということは社会にとって大きな損害であると考えることができる。なぜなら、このヘイトクライムを放置するということは、国家や社会が女性の人権に対して極めて鈍感であり、この卑劣な暴力を野放しにしておくという著しい人権侵害を放置しておくということになる。そして、この人権侵害は犯罪被害者個人が著しい身体的精神的損害を被るというだけではなくて、女性がそのように男性に扱われるということが野放しにされるということは女性に対する有害な(女性は男性によって性的に搾取される存在であるという)性的ステレオタイプの再生産に加担することになり、女性差別を助長しかねないと思う。

    また、それだけではなくて、このような犯罪が多く存在することによって、男性VS女性という無意味な対立を生みかねない。なぜなら、性犯罪の被害者からしたら、圧倒的多数の犯罪を行っているのが男性であるにもかかわらず同じ男性は、その犯罪を黙って見過ごすつもりかそれでは、その犯罪者と同じではないか?と男性一般を非難したくなる気持ちは大いに理解できる。あるいは、そのような一般的な男性の性犯罪に対する鈍感な態度が性犯罪を起こさせる閾値を下げているのではないか?と考えたとしても不思議ではない。

    そして、損害は直接的な性犯罪被害者に留まらない。そのような痴漢に合わないように対策をしなければならない女性の精神的負担というのは社会にとって経済的損害となりえる。つまり、通勤の前から、そのような注意を常に周囲に払っていなければならないという状況に追い込まれている為に、会社に来る前からかなり精神的に疲弊してしまうということもあり得るし、そうなれば仕事の効率にも大きく影響してくる。ちなみに何らかの痴漢対策を講じているという女性は90%にも上る。3同様に、何らかの冤罪対策をしている男性も約半数に上る。4そして男性も女性同様に会社に行く前から精神的に疲労してしまっている可能性がある。もちろんどちらの場合も共通の敵は痴漢を犯す犯罪者である。

    そして警視庁の今年度の資料によれば、管轄内のすべての痴漢認知件数のうち電車内で起きているのは約70%にも上る。5その電車内の痴漢のうち7〜10時の混雑している通勤時間帯に一日のうち全被害のうち40%もの痴漢被害が報告されている。6つまり電車の混雑具合と痴漢の発生率は強い相関関係がある。また痴漢が深刻なのは、その認知件数に比べて暗数がきわめて多いことだ。法務省総合研究所の資料によると、性犯罪全体の暗数は認知件数の8〜9倍に上る。痴漢に関してはこれよりも少し高いと予想される。7

    あるアンケート調査によれば少なくとも1回以上痴漢電車内で被害にあったことがある女性は15%前後で同8%の男性を大きく引き離している。8しかも、この8%という数字にしても、多くは満員電車の中での犯行であり、痴漢犯罪者が男性を女性と間違えてその犯行を犯した可能性が否定できないということを考えると、また女性による男性に対する痴漢というのがほとんどないということから考えれば痴漢が特に女性という属性に対して行われるヘイトクライムという認識は間違えではないだろう。

    また別の調査によれば25%ほどの女性が少なくとも1回は痴漢に合っている、この場合電車内以外での痴漢も含む。9また「痴漢犯罪No!鉄道利用者の会」が行った女子高生に対する調査によれば電車内で少なくとも1回以上犯罪に会ったことがある女性は71%にも上る。10この調査はサンプルサイズが非常に少ないこと、とサンプルが一番被害者が多い10代であるということから考えて全体的にこのような傾向があると一般化することはできない。

    つまり、先ほど上げた25%というのが妥当と思われる。つまり、少なくとも4人に一人の女性が今までに何らかの痴漢被害に遭遇しているということである。これは痴漢が女性にとって非常に恐ろしい犯罪であるということがわかる。この性犯罪被害の非対称性が、痴漢という犯罪に対する男女の認識の違いを形成している一要因といえる。また、痴漢に対する男女の認識差が顕著なのは、この痴漢に対する恐怖という項目だけではなくて、それが女性に対する侮辱。蔑視であるという点である。11 

    つまり、痴漢という犯罪は女性にとってだけではなくて男性にとっても、また、すべての人にとって非常に有害なヘイトクライムであるといえる。故に即座に対策が打たれるべき問題である、という(1)の前提に対して反対する者はほとんどいないと思われる。

    冤罪に関して言えば、確かに冤罪であった場合にそれが無実であることを立証するのは極めて困難である。「痴漢冤罪救済ネットワーク」の調べによれば1990〜1999年の間に“容疑”を否認して裁判で戦った人は203名いるが、結果はすべて有罪であった。12最近ではわりと冤罪であることを認める判決が出てきてはいるが、それでもまだ、それが認められる可能性は極めて低い。

    このようなことが起きる原因を同ネットワークの荒木立教大学教授によれば、(自称)被害者によりその“被疑者”を駅事務所に同行して、痴漢犯罪者であると告げる行為が私人による現行犯逮捕として扱われているということにあるといえる。つまり、警察側も初めからこの男性を参考人あるいは重要参考人としてではなくて、被疑者として自白を迫る取り調べを行うことにあると述べている。これは痴漢だけに限らない冤罪に起きがちな行為といえる。

    あらかじめ被疑者と決めつけた相手に対して、そのような扱いをして、今度は検察がその被疑者にふさわしいストーリーを作り上げる。そして日本の有罪率の高さ99%という数字が示している様に、一度被疑者として取り調べられたらほぼ無罪になる可能性はない。つまり、これは司法制度の問題といえる。痴漢冤罪にだけ起きる現象ではない。

    またこのように冤罪は性犯罪とともに非常に重要な問題なのだが、それが性犯罪の解決に対して、優先するか?といわれれば、そうとも言えない、というか別の問題であると考えられる。性犯罪があろうがなかろうが冤罪は起きうるので、冤罪一般の問題は司法制度の問題である。であるから、痴漢冤罪に関しては冤罪一般の問題点を話すという文脈でしっかり議論されるべき内容であろう。つまり女性専用車両の問題とは全く関係がない。

    さて、ここまでの議論で(1)の前提についてはほぼすべての人が認識を共有できていると思われる。それに比べれば(2)と(3)の問題は運用上、手続き上の問題なのでさほど深刻な対立とは思われない。

    あらかじめ予告しておいたように、私は、今の1両だけを女性専用車両とすることには反対である。それは例えば、1両女性専用車両を作ることで、その他の車両の男性の密度は当然高くなることになる、とするならば、この1両だけの女性専用車両に座れない女性の痴漢に遭遇する確率が高くなることになってしまう。

    つまり、1両そういう車両を導入することでその他のすべての車両において痴漢の発生率が上がってしまい全体としては痴漢の認知件数が増えるというのであれば、その導入の効果に疑問が付されるのは事実だろう。実際に女性専用車両を導入後に痴漢の認知件数が増えている路線もあるということを考えれば私の批判が的外れではないといえるだろう。

    また、1両だけの導入というのは利便性という点でも疑問が残る。また私は1両だけそういう車両を作るということは、女性を男性から「隔離」していると考えることもでき、むしろ男性によって女性が社会から排除されていることの象徴的意味を持ちかねないと思う。

    そして、そのピンクという色で書かれた京王電鉄の女性専用車両という色使いもジェンダーに鈍感な感じが否めない。そのようなマーキングすることで女性を恣意的にレッテル貼りするという効果を持ちかねない。私と似たような批判はブラジルの女性団体が女性専用車両に対して行っている。13

    ではこのようなジェンダーに対する鈍感さという批判に答えつつ、さらに効果的に痴漢を減らすためにはどのように女性専用車両を運用したらいいのか?といえば、私は偶数車両全てを女性専用車、奇数車両全てを男性専用者とすることですべての車両で男女を「隔離」することで、すべての女性が女性専用車両に乗れるようにすべきだと思う、そしてこれによって全体としても1両だけそれを導入することで全体の痴漢認知件数が上昇してしまうというパラドクスを回避することができる。

    さて、問題はこれを度の様に正当化できるのか?という点である。これに対する私の答えはこれはアファーマテイヴアクションであると考えることができるというものである。なぜこれが女性特権ではなくてアフアーマテイヴアクションといえるのかといえば、この措置の目的は女性が男性にない特権を享受するということにあるわけではなくて、犯罪に合わずに平穏に通勤通学する権利、そしてそれによって被ると思われる社会的不利益に対する対策をするということ以上の意味がないからである。

    なぜ特権ではないかというと、これを仮に特権とするのならば、女性と比較した場合に性犯罪に合う可能性が劇的に低い男性はすでに平穏に通勤通学する権利という特権を得ているということになる。つまり、この措置は単に女性にも男性並みの平穏に通勤通学する権利を与えるべきだという議論である。しかし、問題は残る、何かというと、この権利がアファーマテイヴアクションとして正当化されるとしたら、そもそも、この措置がアファーマテイヴアクションが満たすべき条件を満たす必要がある。

    これは私の以前の「女性枠」をめぐる議論に関する記事http://yutakioka.jugem.jp/?eid=53で示しておいた通りのあの条件である。つまり(1)クオーター制ではない。(2)プログラムの目的と手段の適合性。また数値目標を設定する場合は、その数字の設定根拠の呈示。(3)プログラムの柔軟性。目的と手段の適合性が常に保たれるように措置を変更できることと言い換えてもいいだろう。(4)時限を設定する。(5)被差別集団の利益を必要以上に制限しないこと。を満たす必要がある。

    そして今の女性専用車両はこの場合(1)は関係がないとして、というのは移動の自由に関する話なので。(5)に関しては、今の1両だけ導入という制度ではこれを見たしているとは言えない、なぜなら、乗れる車両の数で言えば、男性だけが1車両分乗れなくなるという一方的な損害を被ることになるので、これが女性専用車両に反対する男性が男性差別と感じる点である、そしてその感覚は正当だ、当然あの措置がAAとしても、この条件(5)を満たしていない。ではどうするかこの措置自体を諦める必要があるのか?ない。

    じゃあどうするのかというと、先ほど私が提案した偶数、奇数で男女を完全に「隔離」すれば、男性、女性ともに乗れる車両の数は同数になる、車両数が奇数の場合は例えば先頭車両だけは男性でも女性でも乗れる車両ということにしておけばいい。

    そうすれば奇数の時と同様の車両数に男女ともが乗れる可能性があることになるので、この(5)の男性差別という批判を無効にできる。なぜなら、この場合男性も男性専用車両に乗ることで痴漢冤罪に会う確率を下げることができるから、そして冤罪対策の努力をする必要がなくなることは男性にとっても大きな利益。

    だから、私は1両の女性専用車両には反対なのである。しかも、このように「隔離」すれば、1両だけの女性専用車両よりも劇的な痴漢犯罪被害者を減らすことができるし、女性が女性専用車両に乗るためにわざわざ乗り換えから遠い場所にある車両に乗り込まなければならないという不満を解消することができる。偶数車両ならどこでも女性専用車両なので。またこのように女性専用車両を定めているので、特別なピンクのマーキングなど必要がない。これも女性団体からの批判にも答えられる。

    残るは(2)、(3)である。目的と手段の適合性についても、偶数車両全てを女性専用車両にすることで、全体としての痴漢発生件数を減らすという目的に対する手段としては適切といえる。1両だけを女性専用車両とするような時のようなパラドックスは起きない。また車両比率は随時利用者数に合わせて変更されるべきだ。そして、ジェンダーに関係ない誰でも車両を導入すべきだ。

    さて、次は(3)の条件である。私はこのAAの時限は30年に設定したい。30年限定の時限または、痴漢の認知件数が1/20程度、つまり、男性と同程度の痴漢認知件数に成ったらこの「隔離」措置を解除すべきだと思う。そして、この措置を解除しても痴漢認知件数が上昇しないように教育(性犯罪がヘイトクライムであるという認識の共有)・司法制度(痴漢に対する法律の厳罰化)の改正、そして何よりも痴漢の元凶となっている満員電車の解消を求める。30年あればできると思う。これらの条件をすべて整えた上で、私は偶数車両全てを女性専用車両、奇数すべてを男性専用車両にするというAAを行うべきだと思う。


    男ー女二元論を超えて、そして今後の課題について。

    これまで議論してきた内容は主に男ー女という図式での「女性」のアクセス権を度の様に擁護していったらよいのか?という話であった。しかし、アクセス権をめぐる問題はこのような単純な図式には還元されえないというのもまた事実である。セクシャリテイといっても同性愛、異性愛、両性愛、そしてトランスジェンダーという場合もあり得るほど人間のセクシャリテイは多様である。であるから、ここではメインのテーマとしては議題の俎上には上っていないが、性犯罪を男→女という形で権力関係という単純な構図には還元できないのである。

    男ー女という分類に当てはまらない人はどうすればよいのか?

    それぞれのセクシャリテイのアクセス権を考える上では、それぞれの権力関係の背景を別個に考えていく必要があるだろう。仮に車両を分けたとしても同性愛者による犯罪は起きうるだろうし、トランスジェンダーの人による犯罪が起きる場合もあり得る、それによる被害者も当然発生する。そのように考えるとこのような解決法だけでは、どうしても男ー女という区別で定義できる人の権利にのみ焦点を当ててしまっているという批判は免れ得ないだろう。

    この批判に対しては別途それぞれの状況に合わせた議論を今後していくつもりである。この議論では触れなかったが、それはこのような多様なセクシャリテイのあり方を無視しているというわけではなくて、別のフレームワークの元に別の背景を基に議論する必要があると考えたからである。男ー女という軸でそれを議論するというのはあまりに問題を単純化しすぎていると考えるので。ただし、この男女に当てはまらない人達の権利を無視することは絶対にできない。私はその対策としてだれでも車両を導入するべきだと考える。この誰でも車両はジェンダー、障害の有無などに関わらず誰でも乗れる車両として残す、今までの車両の良い部分は温存したい。

    障害者と介助者はどの車両に乗るべきなのか?

    そして、マイノリテイのアクセス権の平等ということであれば、当然知的・身体障害者あるいは車いす利用、なんらかの障害を抱える個人のアクセス権をどのように擁護すべきか?という問題があるのも事実だと思う。その問題についていえば、例えば今できる対策としては、すべての駅にエレベーターを設置する、点字による地図や案内板を増やす、階段をすべてスロープに変えるなどできる事は多いと思う。そして全盲の個人が盲導犬と一緒に電車に乗り込むということができやすいような慣習を作ることなどが大切だと思う。この議論も別の機会にメインのテーマとしてしていきたいと思う。

    また障害者と介助者が別々のジェンダーの場合どうしたらよいのか?という疑問が当然出てくると思う。仮に障害者と介助者が分かれて乗らなければならなくなった場合、これは間接的な意味で、障害者差別という制度になりかねない。ではどうするか、対策は二つある。

    (a)障害者、介助者はどの車両での乗ることができるようにする。(b)障害者と介助者のジェンダーが異なる場合はどちらかのジェンダーに合わせて乗れるようにする。

    私は(b)の方を採用したい。なぜなら、(a)の場合障害者の性欲を否定する可能性があるからだ。男性障害者の場合女性専用車両にも乗れるとするならば、健常者の男性が女性専用車両に乗れないことと矛盾が生じる。なぜこの矛盾が生じるのかというと、それは、障害者の男性は性犯罪を犯す可能性がないからということを前提にしているといえる。とするならば、それは障害者には性欲がないという議論にもなりかねない。私はこれは偏見だと思う。
    それを防ぐために、健常者男性・女性と障害者男性・女性の条件を平等にしつつも彼らの利益を損ねないためには、(b)の対策をとる方がより障害者の人権・アクセス権を守ることができるだろう。

    また男女専用車両、だれでも車両の比率については随意その利用者割合を調査しつつ補正していく必要があると思う。また「隔離」を原理主義的に行う必要はないと思う。その利用者の数に応じて車両を割り当てたとしても、もしかしたら、混雑率に差が出るかもしれない。その場合はどうするのかというと、例えば女性専用車両が極端に空いていて、男性専用車両が極端に混んでいる場合は、女性専用車両利用者の優先という原則は変えられないけれども、もし、その車両にいる女性が反対しないのであれば、男性がその車両を利用するのは混雑率が100%を超えない程度であれば認められるべきだとも思う。

    アファーマテイヴアクションは「サービス」ではなくて「正義」の問題だ。

    この様に、私はこの議論を「女性」のアクセス権に矮小化するのは反対であるし、また、その導入によって障害者の利益が損なわれることが無視されるということにも賛成できない。であるから冒頭の(3)には上記の理由で反対なのである。つまり、女性専用車両を導入するとしても、それが、男性あるいは他のジェンダーの人達、そして、障害を持つ人に対しての過剰な暴力とならないような配慮が必要なのである。「正義」の問題だからこそ一特殊集団の利益の拡大と思われないような形でのAAをする必要がある。だから慎重な制度設計が必要だ。

    アクセス権が脅かされているのは「女性」だけではないので、障害者も他のセクシャルマイノリテイの人の場合も同じなのだ、だからこれは「女性」の問題ではない、あるいはサービスという話でもない、「正義」のすべての人の自由の平等性問題なのだ。だからこそ、このアファーマテイヴアクションは先ほどの条件を守ったうえで実行されるべきだと思う。


    他者の自由の平等をどう確保していくかということに対する姿勢は自らの自由がどの程度他者から尊重されるかということを決定する要素といえるので、単純にマイノリテイ=「他者」の問題ではないのだ。これらの問題を「我々」の問題として共有できるようなリベラルな社会が望ましいと私は考えている。自由の平等性は社会の安定性に直接かかわってくる因子である。

    これらの問題を「我々の問題」と認識することができるようになるためには、自由の平等性に関する重なり合う合意が自律した市民間で形成されなければならない。14そして、そのために有効な認識装置が無知のベールによる自律した市民の反証的均衡への真摯な議論が必要である、(拒否するのは筋が通らない)(スキャンロン)という基準まで論議を尽くす必要がある。15そして、それは公共的理性の討議実践により正当化されなければならない。16

    Note
    1. 居長正広、川端多津子、寺野朱美、橋爪由紀 (2008)「女性専用車両の学際的研究」大阪府立大学大学院人間社会学研究科人間科学
    2.同
    3.同
    4.岡部千鶴(2004)「女性専用車両に関する一考察〜痴漢被害の実態とともに〜」久留米女子大学研究紀要、
     27、57〜66
    5.警視庁資料http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kouhoushi/no1/koramu/koramu8.htm#02
    6.同
    7.法務省法務総合研究所平成20年度案数調査http://www.moj.go.jp/content/000010429.pdf
    8.居長正広、川端多津子、寺野朱美、橋爪由紀(2008「女性専用車両の学際的研究」大阪府立大学大学院人間  社会学研究科人間科学
    9.同
    10.「痴漢犯罪No!鉄道利用者の会」http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/4567/
    11.居長正広、川端多津子、寺野朱美、橋爪由紀 (2008)「女性専用車両の学際的研究」大阪府立大学大学院人間社会学研究科人間科学
    12.痴漢冤罪防止ネットワーク
    http://www.rikkyo.ne.jp/univ/araki/chikanenzai/shiryou.htm
    13.居長正広、川端多津子、寺野朱美、橋爪由紀 (2008)「女性専用車両の学際的研究」大阪府立大学大学院人間社会学研究科人間科学
    14.J.Rawls(1993)Political Liberalism, New York.
    15. ユルゲン・ハーバーマス(2004)「他者の受容」法政大学出版局
    16. 同

    In Search for Etiology of Cerebral Lateralization for Emotional Recognition: Compare and Contrast with the Right Hemisphere hypothesis and the Valance Hypothesis.

    • 2011.12.11 Sunday
    • 06:48
    In Search for Etiology of Cerebral Lateralization for Emotional Recognition

    An increasing amount of research has investigated how emotion processing is lateralized in the human brain (Bourne & Gray, 2009; Bourne 2008; Burt et al., 2009; Workman, Chilvers, Yeomans & Tylor, 2006; Balconi & Mazza, 2006). Recent research suggests two different hypotheses to elucidate the brain asymmetry in response to emotional stimuli.

    The right hemisphere hypothesis supposes that the right hemisphere is specialized for the perception, expression, and experience of emotion, regardless of the valance (negative to positive) and intensity of the emotional content (Davidson & Schwartz, 1976; Bourne 2010). A study examined the development of cerebral lateralization for recognition of emotion by chimeric face(a face composed by different emotions in each side) tests in different age period, 5-6years old, 7-8 years old and 10-11 years old.

    This research demonstrated that there was observed right hemispheric biases for every emotion such as, anger, happy, sad, disgust, surprise and fear in 10-11years old children, which is consistent with the adult subjects.

    On the other hand, there was observed right hemisphere bias for only happy emotion in 5-6 years old children. Moreover, 7-8 year old subjects showed more adult-like tendency than 5-6 subjects, but less than 10-11 year old subjects (Workman, Chilvers, Yeomans & Tylor, 2006). The results of this study are consistent with right hemisphere hypothesis in 10-11 children because they showed strong left visual field bias (right hemisphere bias) regardless of the valence of emotion.

    Moreover, they also find interesting differences in lateralization based on valence. Positive emotion recognition is more lateralized than negative emotion recognition regardless of the age.

    Furthermore, there are individual differences in lateralization to emotional stimuli. These results suggest two implications. First, cerebral lateralization of emotional recognition is developing between 5 and 11 years old. Second, there is strong right hemisphere bias for emotional recognition after 11 years old. They, however, did not research what factors are correlated with the development of the lateralization of emotional recognition.

    Aljuhanay et al., (2009) investigated the emotional recognition process between adults and children because this strategy difference might cause different lateralization effects for emotional recognition. Prior research suggested that children would use “featural processing”, that is initially recognizing facial features such as distinctive eyes or noses.

    On the other hand, adults would tend to use a “configural processing” strategy to recognize emotion. A “Configural processing” strategy is focusing on spatial relationships between the individual features of the faces.

    This is two-step process. First, a face was defined as a different category from other stimuli. Second, the spatial information was utilized for identifying individual faces. In this study, they found consistent result with the prior study that children and adults recognized facial emotion differently, although regardless of the age, right hemispheric bias was found. This is inconsistent with the result of Workman and colleagues (2006) who found that age difference is associated with lateralization for emotional recognition.

    Bourne and Gray (2009) examined the possible factor which is correlated with hemispheric lateralization. They measured 2D:4D ratio which indicates the influence of prenatal exposure of testosterone and estrogen. Comparative length of the second and the fourth digit (2D:4D) is associated with higher levels of prenatal testosterone and lower levels of prenatal estrogen. This relationship was initially suggested by Manning et al. (1998) and several studies support their suggestion.

    Children with congenital adrenal hyperplasia tend to have lower 2D:4D ratios (Mathews et al., 2004). Lutchmaya et al., (2004) directly measured the testosterone level in the amniotic fluid and found an association with 2D:4D ratio. Bourne and Gray (2009) found an association between 2D:4D ratio and right hemispheric lateralization. The lower the 2D:4D ratio is the stronger the right hemispheric lateralization.

    However, alternative hypotheses were also formulated on the lateralization effect of facial emotional recognition. The valance hypothesis is one of them. This hypothesis supposes that the cortical functional differences encoding emotional information are based on the valance of emotion: right hemisphere is specialized for negative emotions and left hemisphere is specialized for positive emotions (Everhart, Carpenter, Carmona, Ethridge, & Demure, 2003; Silberman & Weingartner, 1986).

    This hypothesis is also supported by several studies. Everhart and Harrison (2000) demonstrated that negative faces were more rapidly identified if the stimuli were placed in the right visual field. Some EEG research has revealed that relative increase of left hemisphere activity was found with positive emotional stimuli (Davidson & Henriques, 2000)

    Although several studies have examined the process of the lateralization of emotional recognition, two fundamental issues remained. First, there is not enough evidence about which hypothesis―right hemisphere hypothesis and valence hypothesis― can be correct. Second, regardless of the hypothesis, it is unknown what kind of social and/or personal factors might contribute to influencing individual differences in the lateralization for emotional recognition other than hormone.

    Political attitude, personal, social and environmental factors can also contribute to developing cerebral hemispheric lateralization. Oxley et al., (2008) demonstrated the correlation between conservatism and sensitivity to emotional stimuli. This could have associations with lateralization for emotional recognition. The direct relationship is unknown; however, personal trait may have association with cerebral lateralization.

    One study revealed that openness is negatively correlated with conservatism, and conscientiousness is positively correlated with conservatism. The correlation between other personal traits and conservatism are inconsistent (Vecchione, 2011). These results indicated that personal traits are correlated with political attitude, and political attitude may be correlated with cerebral lateralization.

    Wong, Fung, Chua, and McAlonan (2008) demonstrated that people with autism displayed reduced right hemisphere activity in comparison to normal controls when viewing emotional faces. Nevertheless, Harris and Lindell (2008) found that people with high autistic-like traits showed right hemispheric lateralization bias when viewing emotional faces. This tendency showed the same result when people with low autistic-like traits were viewing happy faces. This result indicates that people with high autistic-like traits but not autistic disorder have an intact facial recognition processing system.

    Social anhedonia personality trait which is characterized by a reduced desire for social affiliation and reduced pleasure derived from interpersonal interactions (Germine, Garrido, Bruce and Hooker, 2011). The high SA group showed reduced activity in the anterior rostal medial frontal cortex, right superior temporal gyrus, and somatosensory cortex in comparison to the low SA group when viewing emotional stimuli(Germine, Garrido, Bruce and hooker, 2011).These three areas are the part of the neural network to process emotional recognition.

    The arMFC activity is associated with mentalizing, and other aspects of social cognition. This area is associated with abnormal emotional recognition process in schizophrenic individuals (Brunet-Gouet and Decety, 2006).

    The superior temporal gyrus and sulcus are involved in perceptual processing of dynamic social stimuli including facial expressions of emotion, eye gaze and movement of lips(Haxby et al., 2000; Hooker et al., 2003, 2008, 2010). Moreover STS is involved in processing complex social emotion recognition processes including recognizing appraisal of intention or context of facial expression (Pourtois et al., 2004).

    The somatosensory cortex are thought to contribute to emotional processing by allowing facial expressions to be understood using an internal representation of a facial expression maintained in one’s own somatosensory cortex (Adolphs et al., 2000; Heberliein et al., 2008; Hooker et al., 2008). The somatosensory cortex have dissociable role with superior gyrus and sulcus in emotional processing. Lesion of somatosensory cortex leads to impairment in emotional discrimination of the same facial expression.

    Although these deactivation areas were found in high SA subjects, it was unclear whether this is a cause or consequence. People with schizophrenic personality traits showed poor emotional recognition response including sensitivity for detecting emotional prosody. This, however, cannot be attributed to abnormal activation of right hemisphere (Castro and Pearson, 2011).

    Socioeconomic status was also thought to be the factor which may contribute to developing cerebral lateralization. High socioeconomic status may positively correlate with cerebral lateralization and low socioeconomic status may negatively correlate with cerebral lateralization (Boles, 2011).

    Although cerebral lateralization for emotional recognition has been induced since 5 years old, there is no compelling evidence about what factor would cause this phenomena and how it would be develop. Further researches is needed to shed light on the processes of emotional recognition which is necessary process of acquiring social information and to find out etiology of the lateralization to treatment for the individuals with poor emotional recognition ability.

    References

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