岩波書店のケースを例に縁故の種類と縁故採用のメリット・デメリットについて考えてみる。

  • 2012.02.12 Sunday
  • 09:53
岩波書店が応募条件に岩波著者または店員の紹介というのを課したいわゆる“縁故”採用を先月発表していた。それに対して厚生労働省がこの採用方針に法的な問題がないかどうかを調べるという事態になっていった。しかし、実際に厚生労働省が調べた結果、法的には何ら問題がないとのことだった。

岩波書店がこのような応募条件を設定した理由は採用コストの削減という事が大きいだろう。というのも、実際の採用人数、数人に対して応募者数は1500人程度に上る。岩波書店の社員数は300人程度で、採用に割ける人員や資金などを考えると1500人もの人員をチェックするというのは非常にコストパフォーマンスが悪いと思われる。

なので、あらかじめあのような応募条件を設定することにより応募者数自体を少なくしてしまえば、はるかに効率の良い採用ができると岩波が考えるのは当然であろう。もう一つ岩波側の利点としては、このような条件を採用することで、モチベーションの高い社員を採用することができる(もともと縁故があればいいが、ない場合は積極的に人脈を作らなければならないので)と考えている点である。

これらの点が岩波側が考えるこの採用方針のメリットである。では学生にとってこの方針はどのようなメリット・デメリットがあるのだろうか。まず明らかなデメリットから上げれば、このような応募条件を課されたことで、初めから縁故がある学生が有利で、縁故がない学生が不利になるという機会の不平等というのがそれである。

しかし、こういう意見も考えられるだろう、いや岩波書店の店員や著者を見つけるのなんてそれほど難しくないし、岩波の本を一度でも読んだことがある学生なんて多いだろうし、それならば、その読んだ本の著者に直接コンタクトなどをとればいいではないか?というナイーブな意見も聞こえてきそうだ。

私がこの意見をナイーブだと思う理由は、確かに、そのようにコンタクトをとることはできるだろう。しかし、コンタクトをとるという事はその分ある程度の時間も必要だし、著者と会ったりするわけだから食事代や交通費などの費用がかかるだろう。つまり、初めから縁故がある学生に比べて、この応募に対して余計に時間的・金銭的な負担を強いられることになる。それならば受けなければいいだろうという意見も出てくるだろう。しかし、この意見は全く反論にならない。というのも、問題は受ける受けないとか、効率性とかそういう話ではなくて、初めからある学生が有利である学生が不利になるという点にあるからである。

では、私は縁故採用は絶対反対なのか?と言われれば、それは違うと答える。私は岩波のこの採用の仕方には大いに問題があると思うが、ある種の縁故採用にはそれほど問題がないと考えている。ではなぜこの採用方法が問題が大きくて他の縁故採用方法はそうでもないと考えられるのだろうか。

それは縁故の種類による。この採用が不平等な縁故採用だと思われる理由は、縁故を必要と言ってもそれが初めからある人達が存在しているという点である。これが例えば大学院を受ける場合に教授の推薦書が必要という意味での縁故採用との違いである。あるいは、多くのアカデミックポストで行われる縁故採用との違いである。

この両者は何が違うのかというと、大学院などを受けるのに必要な教授の推薦書を得るためにはすべての人がある程度それを得るための努力を行う必要がある、つまり、初めから大学入学時から教授の推薦状をもらえている、それを得るために「何もしなくていい人達」はいないわけで、縁故と言っても、それを得るのは本人の何らかの努力の結果として評価されるべきものといえる。アカデミックポストでの縁故も同様だ、ある教授の推薦などで何らかのポストが得られる状態があるとしても、結局その教授にある程度認められ囿為の何らかの努力をしなければならないわけで、何もしなくても初めからある縁故ではないのである。

つまり縁故と言っても大きく分けて二つあって、「本人が何らかの努力をした結果獲得した縁故」と「本人の資質に依存しない縁故」というものがある。岩波の縁故は明らかに後者に近い。なぜなら、学生が岩波著者と知り合いという状況は、おそらく自分の家族あるいは親戚がその人を知っているという場合がほとんどであろう。

つまり、本人の資質や才能故にできた縁故ではない縁故を持っている人たちが多くいるので、この採用方針だと、機会の不平等といえる、それが本人の努力の結果による差ではないので。アカデミックポストなどや教授の推薦した企業に入るなどという場合の縁故は多くの場合、本人の努力が認められた結果であると考えらまたそれを得るための機会は平等だといえるので、そこまで不平等とは言えないし、さほど問題があるとも思えない。「親のコネ」といわれるものは明らかに後者といえる。

問題は縁故採用がいいか悪いかではなくて、どちらの縁故採用なのかである。また一般的に、岩波に限らず、私は仮にその縁故が後者の意味での縁故で採用を行っている企業があったとしても、(もちろん縁故なら前者の縁故の方が好ましいのではあるが)解雇する時の条件さえ縁故と縁故でない採用の間で平等にしておけばそれほど問題がないといえる。縁故でとった人材だからダメでそうでない採用でとった人材だから大丈夫というわけでは必ずしもないので、もしかしたら縁故でとった人材の方が使えるかもしれないし、そういうことはたびたび起こり得る。例えばアカデミアの世界ではむしろそういう縁故採用の人材の方が使えたりする。

だから、本当は私は岩波の場合も両方の採用をありにすればよかったんだと思う。縁故採用枠とそれ以外の枠と。そうすれば縁故を持っていない人にも不利にならないし、縁故採用枠を設けることである程度の応募者を減らすことができる。私は両方を組み合わせた採用の方がより多様な人材を確保するのに役に立つと考えているので、縁故と縁故でない採用の両方の比率が極端に偏りがない場合はそこまで批判する必要はないと思う。逆に言えば今回の様に縁故だけというのは批判されても仕方がないケースと思えるけど。

ただ、この応募条件のメリットもあって、初めから縁故がなくかつそれを作ろうとは思わない学生は、岩波を受けないという判断を事前にできるので、就活の際に時間を他の企業に割けるという意味ではメリットといえる。そういう意味では縁故が必要ですよと初めに宣言している岩波はこの観点から言えば、縁故と明言しないで縁故採用を行っている他の企業と比較すれば、むしろ親切ともいえる。

結論としては、この縁故採用には岩波側にも学生側にもそれぞれメリット・デメリット双方があるという事である。そして、私は縁故で採用すること自体には反対ではない、が同じ縁故ならば、本人の資質によって認められるという種類の縁故の方がより問題が少ないと考えているし、また、採用も縁故だけではなくて、非縁故型の採用も残しておくべきだったと考えている。

「文明論の概略」から読む大学のグローバル化と二つの国際化について。

  • 2012.01.24 Tuesday
  • 12:03
最近発表された東京大学の秋入学以降の話が世間の耳目を集めている。東京大学のHP
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen02/fall.enrollment.htmlに書かれていることを要約すると、今回の措置は東京大学の二つの戦略を達成する為の手段と位置付けられていることがわかる。2つの戦略とは、「タフな東大生の育成」「グローバルキャンパスの形成」である。「タフな東大生って何?」というツッコミはを入れたくなる気持ちはわかるがそれは後程。そしてこの文によれば、なぜそれが必要なのかというとここで議論されているのは国際的ハーモナイゼーションを図るために、そして国際的競争力をつけることが目的とされている。またここで議論されている国際化の意味ついてももう少し議論してみたい。ここで浜田総長は国際化を“いわば砦に柵を構えたままで時おり外に出ていくような国際化ではなく、柵を取り払った大平原の上で自らの独自性と能力を存分 に発揮し、世界の有力大学、それらの学生たちと日々切磋琢磨し合うような環境を強化すること”と定義している。今回の措置はこの意味での国際化への一歩を踏み出したいという事であろう。これが一応東京大学の今回の措置への背景と理由説明である。

さて、この説明で何が言いたいのかよくわかっただろうか?おそらくほとんどの人が抽象的すぎて何が言いたいのかよくわからないという感想を持ったであろう、何を隠そう私もその一人だ。この文の中で特に意味不明なのは「タフな東大生の定義」や「国際的ハーモナイゼーション」「グローバルキャンパス」だろう。これらの言葉が定義なしに使用されていて具体的には何を意味するのか明瞭ではない。であるから、これからこの抽象的な言葉の意味について考えていくことにする。その為には日本の大学国際化の歴史を少し振り返ることが助けになると思われるので振り返ってみることにする。その前にまず大学の国際とは何か?大学のグローバル化とは何か?という基礎的な概念についておさらいしておくことにしよう。意外とこの概念が紛らわしいので。

先ずグローバル化とは何かというと人・モノ・カネの移動を自由にして国境が何の意味も持たないボードレスでコスモポリタンな社会を目指して以降とする理念である。この理念が経済的な意味で用いられればそれは当然自由貿易の促進という意味を持つ。そして、この考えを世界中で共有しようという話である。ではそれが大学に適用されればどういう意味になるのであろうか?

大学のグローバル化を定義すると以下の4つの条件を世界各地の大学が見たしていく状態を指すと思われる。(1)世界各地の大学の人材交流の活発化(2)各国の取得学位の互換性(3)学術ポストの自由化=学術ポストを全世界の研究者に平等の機会が与えられること。例えば日本であれば、日本人であることが理由で採用されることなどあってはならない。つまり研究業績による評価の徹底という事になるだろう。(4)(1)〜(3)を満たすためには当然共通言語の英語は不自由なく使用できなければなrないし、研究における特殊言語による障壁をなるべくなくしていかなければならないといえる。

浜田総長が曖昧で抽象的な言葉で表現していたのを私なりに定義すると先ほどの様な意味になる。あの定義の中に先ほどの言葉「タフな東大生の定義」や「国際的ハーモナイゼーション」「グローバルキャンパス」はすべて含まれている。つまり、「タフな東大生」とはあの意味での大学のグローバル化に対してよく適応できる能力を持っている東大生という意味であり、「国際的ハーモナイゼーションとは」(1)〜(4)の意味そのままであり、グローバルキャンパスの形成とは(1)〜(4)を実行する為の設備や制度を整えていくという事である。

次に国際化とはなんだろうか?というとこれは大きく分けて二つの意味が考えられる。1つ目は国内の制度をグローバル化に適応させる形で変革していく。日本が有史以来ずっとやり続けているのがこの意味での国際化。漢字の導入然り、律令制度の導入然り。そして当然明治期の西洋文化の包摂然り。これは便宜的に内向きの国際化と呼ぶことにする。日本ではこればかりが行われてきた。しかし、国際化という言葉にはもう一つの意味があって、これはアメリカやヨーロッパ諸国が主に使う意味での国際化。これを便宜的に外向きの国際化と呼ぼう。外向きの国際化とはどういう事かというと、グローバル化に対する適用として、その共通の基準を自国の文化に対して有利になる様に国際社会に働きかけるという事である。グローバル化を推進するアメリカがなぜ国内がガラパゴスなのかもこの外向きの国際化という概念を使えば矛盾ではないという事がわかる。例えばかつてのフランスはメートル法の導入という事を世界に働きかけてそれを世界標準としたし、英国は英国で世界中に植民地を持ち英語を国際語にする=植民地諸国を国際化させたし、近年のアメリカであれば、例えば貿易のルールをアメリカが敷いた路線で世界各国が議論している。だからグローバル化はアメリカ化と同義といわれるのも当然である。その功罪は今日のメインテーマではないからおいておくとして、浜田総長が発言してた意味での国際化はこちらの外向きの国際化という事だと思う。じっと待ちながらたまに外に出ていくのではなくと言っていることからも分かる様に。

これでようやく東大の意図が見えてきたと思う。つまりこの意味でのグローバル化を目指していて、その手段として外向きの国際化を目指していますよ、そしてその手段が「タフな東大生の育成」であり「グローバルなキャンパス」という事である。この理念は分かった。では次は、その為の手段として秋入学は適切なのかどうか?という事である。

結論から言うと、それは適切ではない。というのも、より適切な方法があると思われるから。先ほどの議論から東大の目的が外向きの国際化であることが分かった。ではどうするか?私は今すぐにでもできそうなこととして3つの事だけを提案したい。
(1) 秋入学ではなくて入学・卒業時期の選択制、そして当然入試も年に二回行う。秋入学にすることで東大が期待したのが留学生の受け入れを容易にすることとギャップイヤーの活用だった。しかし、前者はいいとしても後者は必要のない生徒にとっては単に金銭的な負担が大きいのではないだろうか。半年間留学したりボランテイアをさせられる家庭はいいがそうでない家庭はたくさんあるわけで、そういう生徒にとっては春入学した方がよっぽど利益になる。だから秋入学はいいとしても入学の選択肢は残しておくべきだ。(2)外向きの国際化を謳いながら東大の現状はどうなのか?というと、東大に留学する外国人留学生と東大から外国に留学する学生の比率を見てみると3:1である。 http://www.oice.t.u-tokyo.ac.jp/exchange/result.htmlこれはどういう事かというと、キャンパスには外国人を呼び寄せているが外国に留学生を積極的に送り出そうとしていないという事がわかる。私は東大はこの比率を1:1程度になるような工夫をすべきだと思う、それは例えばスカラーシップの拡充、生活費の一部免除など。

そうでなければ外向きの国際化などできない。しかも東大に留学してくる外国人はその後その国に帰ってしまうことが多いので折角彼らがキャンパスに短期間在籍したとしてもそれほど大きな影響を及ぼせない。逆に東大から留学生を外国にたくさん送り出せば彼らが帰って来ればその経験などをたくさん学内に還元してくれるし、彼らは日本で生活することが多いだろうから、日本社会全体の国際化に長期にわたって役に立つ。この二つの措置をすることで上手く外国人留学生を増やしかつ多くの交換留学生を送り出す工夫をすべきだ。

私がここで具体的な制度の変更ではなくて学生のグローバル化から話したのは、結局キャンパスの学生自体がグローバル化をしてしまえば制度はそれに合わせざるを得なくなる。だから、学生のグローバル化=精神的な意味でのグローバル化の方が優先されるべきである。逆に制度をいくらグローバル化しても学生がグローバル化されなければ何の意味もない。日本がグローバル化と考える場合このように制度を精神よりも先にしてしまい肝心の精神が寛容されないということが多い。明治以来取り入れた制度が未だに機能していないのもこの理由である。福沢は慧眼にもこのようなことが起きることを見越していた。「文明論の概略」でこのように書いている。

「...故に云く、欧羅巴の文明を求めるには難を先にして易を後にし、まず人心を改革してついで政令に及ぼし、終に有形の物に至るべし。此順序に従えばことを行うは難しといえども、実の妨害なくして達す可きの路あり。此順序を倒にすれば事は易きに似たれども、其路忽ち閉塞し...寸歩を進めること能は...
或は寸を進めんとして却て激して尺を退くることある可し。」

福沢はこのように文明を取り入れたいのなら制度や法律よりも前に人身を変革することが肝要だとといた、まずは人の意識を変えることが大切。そうすれば、それは制度を変えるよりも難しいが最終的にはその方が上手くいくと。これは今の国際化議論にもあてはまるのではないだろうか?つまり、外に留学生を送り出して、その意識が変わった学生をたくさんキャンパス内に確保することができればそのうち制度もそれに合わせて変わっていくだろうと思われる。だから私も制度よりもとにかく留学生を外に出すことが大切だと思う。

国はこの辺の外の意味での国際化の意味をあまり理解しとらず留学生30万人計画など国内に留学生を受け入れる内向きの国際化ばかりを唱えているように思える。私は今回の東大が外向きの国際化の為のモデルケースになりうることを期待するばかりである。その上で参照すべきは欧州において行われた外向き国際化計画エラスムス計画だろう。同計画が示唆するように人材交流は一方的であってはいけないと思う。だから東大は受け入れと送り出しの比率を1:1近くまで持っていくべきだと思う。

(3)それと同時に留学生の出身国がもう少し多様化するように工夫すべきだと思う、留学生のうち92%がアジアという現状は多様な文化を受け入れているとは言い難い。例えば北米からの留学生はたったの1%に過ぎない。逆に東大生の留学先のうち50%以上が北米だ。これは人材交流を考えた場合にあまり健全とは思えない。もう少し北米から留学生数を増やして日本の文化を海外に紹介するべきだ。また福沢が述べている様に、各文明にはそれぞれ優れた制度や習慣があるのだからそれは上手に残していけばいいと思う。日本の文化でもグローバル化に役立ちそうなものはあえて変えずに残していき、それを世界に発信することが大切だといえるだろう。何でもかんでもアメリカ化する必要はない。

参考資料
東京大学http://www.u-tokyo.ac.jp/gen02/fall.enrollment.html
http://www.oice.t.u-tokyo.ac.jp/exchange/result.html
福沢諭吉「文明論の概略」

大学入試センター試験は受験者の利益になっているのだろうか?

  • 2012.01.19 Thursday
  • 05:39
大学入試センター試験は受験者の利益になっているのだろうか?

大学入試センター試験は受験者数555,537人に及ぶ試験である。その試験は国立大学志願者はもちろんの事、センター試験の結果によって合否判定を行う私学あるいは、その結果の一部を合否判定に用いる私学があるなど、非常に多くの場面に用いられる。それ故に、その試験がその結果を利用する受験者の利益に適っているかどうかを検討するのは非常に有益なことに思える。私は今のセンター試験はあまり受験者の利益になっていないと思うので、それを改善する為の試案を幾つか提案したい。私が改善すべきだと思う点は3つある。(1)受験料の引き下げ。(2)試験回数の増加。(3)試験受験時期そして試験結果の利用できる年数の柔軟化。

(1)がなぜ問題になるのかというと、センター試験の受験量は極めて高額であるからである。例えば3科目以上の場合その受験料は18000円である。それに対して3大予備校のセンター試験プレテストの受験料は、おおむね4000円前後に収まっている。プレテストであるから主題形式もほぼ同じだし、センター試験受験者の多くが受けると思われるので、採点人数もさほど変わらないと思われる。それにもかかわらず4倍以上もの受験料を徴収するというのは極めて非合理的に思われる。

なぜセンター試験がこれほど高コストなのかというと、理由は二つある。1つ目の理由、それはセンター試験を実施する母体が独立行政法人大学試験センターによって行われており、多くの職員の人件費に消えているという事。なぜなら、独立行政法人なので官僚の天下り先になっている。センター試験を私大にまで利用させている目的の一つは結局天下り先を確保しておくという理由に他ならない。2つめの理由は、独立行政法人という組織の性質上何かを委託する場合に随意契約の割合が全体の46%ほどにも上り金額ベースだと全体の75%が随意契約によって支払われている。競争入札は全案件の54%程度だが金額ベースではわずかに25%に過ぎない。如何に随意契約が高額であるかがわかるだろう。

私はこの独立行政法人の職員数の見直しをするべきだと思う。それに加えて随意契約の多くを競争入札に変えるべきだと思う、それでだいぶコストを下げることができる。民間が4000円前後でできているのだから、これくらいの値段でできるように努力すべきだと思う。

(2)であるが、私が複数回受験を可能にすべきであると言っている理由は、例えばたまたま試験前日に風邪をひいて思うような実力を発揮できないという事が起こり得る事態をなるべく減らすべきだと思うからである。例えば年に3〜4回ほど実施して、その中で一番いいスコアを提出させるという形式にすれば、風や体調不良あるいは予期せぬ怪我故に受験できなくなったなど、これらの不測の事態故に実力を発揮できずに浪人せざるを得なくなって、余計にお金がかかるという金銭的負担を減らすことができる。1年予備校に通うためにかかる費用は複数回のセンター試験の受験量など問題にならないくらい高い。また先ほど提案したようにセンター試験の受験量を下げられればこれまでと同じ費用で3回くらいは受験できる。また複数回の試験を実施することによって例えば3年生の春先に一回目の試験で満足する結果を出すことができたら、もうそれでセンター試験の勉強をしなくて済み二次試験対策をほぼ1年間かけて行うことができる、この時間的な余裕は大きい。

(3)であるが、このアイデアの拡大版で、私はこの1年で4回くらい実施するという事だけではなくて、センター試験を受けられる時期も自由にすべきだと思う。どういう事かというと、例えば高校生1年生でも受けられるようにする。そうして試験結果の有効年度を二年間などにする。仮にそういう風にすれば、1年生の終わりに例えばセンター試験を受けたとする。そこで満足な結果が得られれば、もう二年からセンター対策を行わなくて済み二次試験に集中することができる。有効年度を二年間にするという事の利点はもう一つあって、それは浪人生の負担を減らすということである。例えばセンター試験は上手くいったが二次試験が上手くいかなかったという人がいたとして、もう一回センター試験を受けるという事をしないで済む分二次試験の勉強を重点的に行うことができる。

私はこの3点の改革を行うことですべての受験者の利益の為になるようなセンター試験のあり方を独立行法人大学入試センターは考えていくべきだと思う。それがセンター試験が「国民生活及び社会経済の安定等の公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務及び事業」であることを外部に示すことにもなるのだろうから。受験者の利益にならないような試験であれば、その存続理由が問われることになる。

参考資料
河合塾http://www.kawai-juku.ac.jp/moshi/zento/jukenryo.html
駿台予備校http://www.sundai.ac.jp/yobi/moshi/index.htm
大学入試センターhttp://www.dnc.ac.jp/
代々木ゼミナールhttp://www.yozemi.ac.jp/test/moshikomi/index2.html?moshikomi

ツイッターでの炎上に関する7つの法則 :如何に人災を避けるべきなのか?

  • 2011.12.14 Wednesday
  • 13:43
ツイッター上では、もはや、お約束となりつつある炎上。ツイッター上での炎上というのは、ある個人が処理・あるいは対応しきれない数のリプライが特定の時間帯に集中的になされる場合を意味すると思う。

だから、炎上というのはそれを眺める第三者がどう思うかは別として、基本的にはその個人の主観や能力に大きく依存する現象といえる。炎上といってもいくつかの種類があって、ツイッター上だけでの炎上という場合もあれば、ツイッターの外部、例えば2chなどでも同様に炎上状態が続いているということもあり得る。

2chでの炎上とツイッター上での炎上は似て非なるものである。2chでの炎上あるいは祭りというのはその言葉通りである特定の狭い空間での騒ぎであるといえる、あるスレ内での出来事でそれを見学したければその祭りに参加しなければならない。

しかし、ツイッター上での炎上というのは祭りというレベルの話ではなくて、山火事といえる。第三者がその現場に行かなくてもどこからでも見学することができる。また2chの場合レスが1000を超えると倉庫行きだが、ツイッターの場合はそういうわけでもない、無限にツイートがRTされていつまでのそれが流れ続ける。

またとても開かれているメデイアなので、同じネタを議論していても2chで倉庫行になるよりも、ツイッター上で1000RT行く時間の方がはるかに短い。

ツイッター上ではフォロワーが多いアカウントであれば常時数千人あるいは数万人に対して情報を発信しているので、それが炎上物件だとその被害は2chの非ではない、むしろそれがさらに2ch行きというのが最近のパターンである。

ツイッター上で炎上→2ch→ミクシイで個人情報特定の流れは、ある種個人情報特定の“セントラルドグマ”といえる。つまりツイッター上での炎上というのは場合によってはそれだけで済まない場合が多々見られる。

ここでのテーマはこのような現象の背景でも分析でもない(それは別の機会にしてみることにする)。そうではなくて、私がツイッター上の観察と実験した結果からある程度見えてきた炎上の法則について話をしたいと思う。これは、どのような発言が炎上しやすいかというあくまでテクニカルな話をしようと思う。


炎上するパターンというのはランダムではない。炎上は人災である。明確なパターンがあるのでそのパターンを知れば多くの場合避けられる。かなり明確なパターンがある。それを幾つか上げてみることにする。本当かどうか知りたい人は各自で実験してみてください。(あまりすすめませんが)

炎上パターン、これらは必ずしも独立的ではない。場合によっては同一の減少が複数のパターンに分類できる場合がある。またこのパターンはネット上に限らず見られる傾向である。

1.炎上で一番多いのが、犯罪告白。例えば未成年でタバコを吸ったとか飲酒したとか、酷いのになると飲酒運転した等。このパターンで炎上した人の数は多すぎてわからないくらい。東大生飲酒事件など。

2.反道徳的行為の告白またはその自分の価値観を根拠なく押し付ける発言。これの顕著な例は、“ブスを守る会事件”や東浩紀教授のクラスの生徒がカンニングしたという告白をツイッター上でした事件。当然のことながら東氏は即座に発見した。あるいは、ファーストフードや居酒屋などでの“イタズラ”告白など。あるいは職を失ってしまった例のアディダス社員の事件。“ツイットクリエーター”の“無償で働け”という発言はこれにあたる。あるいは「フォロワー数の少ない方は多い方に敬語を使え」というのもこれにあたる。

3.属性から予測されると思われる(勝手に他者がそのように推測している場合も含む)るべき行動や規範意識から著しく乖離した発言。別名“お前が言うな”、“お前がやるな”話法。
例えば、なぜ同じ犯罪告白でも高学歴者と低学歴者の炎上度合いが違うのだろうか?といえば、人々が勝手に高学歴者は道徳的にも低学歴者よりも優れていると根拠なく盲信されている場合が多いので(実際はモラルで入試をやるわけではないのだが)同じ犯罪行為を犯した場合でも不平等だがFラン大学の学生よりも東大生が犯罪を犯した方が炎上する。もちろんそれだけじゃなくて、それには、ル・サンチマンも含まれてはいる。

あるいは、おとなしいように見えた人が犯罪を犯す方が、暴走族が犯罪を犯すよりもニュースになりやすいというのも同じ現象。この場合もおとなしいという属性が暴力を想像させないにもかかわらず犯罪を犯すということで予測される行動とのギャップが大きいゆえに話題になりやすい。あるいは逆に、不良がいいことをすると、普通の人がいいことするよりも注目されやすいというのと同じ現象といえる。

4.ある特定の集団への主観的なステレオタイプの発露または、勝手な思い込みを基に他者を攻撃する発言。童貞は○○など。○○には多くの場合マイナスな言葉が入る。これも他のパターンと組み合わさる場合があるが、その場合の炎上確率は相乗効果で極めて高くなる。
5.マリーアントワネット話法。
パンがないならお菓子を食べればいいというアレ。これを応用する場合もかなりの確率で炎上する。よくある例は、「就職できないなら起業すればいい」というやつ。XできないならYすればよいとの文脈でXよりもYの方が困難が伴う動作や態度がそこにある場合このパターンに該当する。いわゆるツイットクリエータという人が毎回呟いている多くの発言がこれ。
6.主観や経験の過度な一般化あるいはその主観の根拠が陰謀論の場合。
○○は甘えというのがよくあるこのパターン。
○○人は△△というのをネタではなく且つ文化ではなくて個人の性格として言及している場合などがそれにあたる。元国連の某職員が炎上している理由は大体これ。本人はもちろんわかってて商売の為にやってる確信犯。いわゆる炎上マーケテイング。

7.ツイッター上の有名人に晒される場合。これも炎上確率が高い。
 フォロワー数の多いアカウントに話しかける場合は注意が必要。いつ晒されるかわからないので。

以上が炎上の7つの法則です。これ以外にもあるかもしれませんが、少なくとも私がツイッター上で実際に実験してみて炎上確率が高かったパターンがこの7つだったということです。

ある劇的なデータを公開しますが、これは私が1のパターンじみたことを紹介した時にある人がコピーをしてそのままツイートしたところ10分で350RTを超え30分前後で1000RTを達成しました。上記のパターンに当てはまる言説をすればそれくらい簡単に炎上します。

以上のパターンに分類される発言は炎上確率が高いのでそれを自覚しながらする必要があると思います。炎上はランダムには起きないので、気を付けていればある程度防げますし、むしろこれらの発言で炎上を意図的に引き起こすことができます。そのような自覚がないままナイーヴに発言をしていると、ツイッターを馬鹿発見器として機能させることに協力してしまうだけになるので、ご利用は計画的に。

1両だけの女性専用車両に反対する理由。そしてアファーマティヴアクションとしての男女専用車両について。:痴漢被害をどのように減らしていけるか。

  • 2011.12.13 Tuesday
  • 11:43
1両だけの女性専用車両に反対する理由〜そしてアファーマティヴアクションとしての男女専用車両そして誰でも車両の導入について〜痴漢被害をどのように減らしていけるか。

結論を先に纏めておくと、私は1両だけの女性専用車両に反対である。そうではなくて、アファーマテイヴアクションとして、通勤通学時間帯の朝7〜10時の痴漢多発時間帯に、偶数車両を女性専用車両、奇数車両全てを男性専用車両にすべきだと考える。そして車両数が奇数の場合は先頭車両を、性別に関わらず(男女あるいはそれ以外のセクシャリテイの人)が乗れる車両(誰でも車両の導入)にする。

そして車両数が偶数の場合は先頭車両と二両目を同じく誰でも車両にすればよいと思う。また障害者と介助者のジェンダーが異なる場合は、どちらかのジェンダーに合わせて乗ればよいと思う。そしてそのこのAAをとる場合以下の条件を必要とする。

30年限定の時限または、痴漢の認知件数が1/20程度、つまり、男性と同程度の痴漢認知件数に下がったらこの「隔離」措置を解除すべきだと思う。そして、この措置を解除しても痴漢認知件数が上昇しないように教育(性犯罪がヘイトクライムであるという認識の共有)・司法制度(痴漢に対する法律の厳罰化)の改正、そして何よりも痴漢の元凶となっている満員電車の解消を求める。30年あればできると思う。これらの条件をすべて整えた上で、私は偶数車両全てを女性専用車両、奇数すべてを男性専用車両そして、誰でも車両の導入するというAAを行うべきだと思う。

またこの男女専用車両、そして誰でも車両の比率は常にその利用者数に応じて変更されるべきだと考える。また通勤時間帯でも、著しく混んでいない車両が女性専用車両にあるとするならば、その車両の女性による反対の声がない限りは、「女性」以外のセクシャリテイの人がそれを利用するのも認めていいのではないかと思う。「隔離」を原理主義的に行うのは「差別」である可能性があるので、それくらいの柔軟性は認められるべきだと思う。



女性専用車両についてどう考えるかというのは、常に大きな論争になってきたテーマである。このテーマが論争的なのは、しばしば、賛成、反対両陣営が互いのその理由について大きな誤解をしているということがあげられる。簡潔に言えば、女性専用車両の導入の正当化は以下の前提全てを認めれば賛成派で少なくとも一つを否定すれば反対派ということになろう。
(1) 痴漢は非常に深刻な性犯罪であり即座に何らかの対策が講じられるべきである。(2)その有効的な対策として今、運用されている女性専用車両は効果的である。(3)その対策を行うに際して予想される不利益は仕方がないから有無を言わず許容すべきだ。

ここでしばしば誤解されるのが賛成派が反対派として想定しているのがこれらの前提のうちすべてを否定する人達であることが多い。この誤解によると、確かに、女性専用車両を認めないのは痴漢を大した問題と思っていない、あるいは、そのような問題をなかったことにしたい立場のセクシストということになるのだろう。私がこの議論でいつもおかしいと思うのは、この問題がなぜか「女性」のアクセス権の話に矮小化されている点である。これは全くの見当違いだと思う。

この問題は「女性」という特殊な利害集団に対して特殊な利益を与えよという話ではなくて、自由の平等性という観点から考えた場合に、著しくそのアクセス権を奪われている集団が社会に存在しているという話で、「女性」はその不遇なグループの一つに過ぎない。であるから、この問題は自由の平等性に対する非対称性一般に関する議論でなければならない。つまり、「女性」のアクセス権だけが語られべきではなくて、同じように不利益を被っている「障害者」や男性ー女性という分類では定義できないセクシャルマイノリテイーに対してのアクセス権についても語られるべきだ。

「女性」の権利の回復の為ににこれらの人達の利益が損なわれてはならない。そうではなくて、このような不利益を被っている人たち全てに対して権利の回復の為の措置が行われるべきである。今回の論考は焦点を女性専用車両に絞っているので、メインになる議論は男ー女という軸を中心に議論を進めるが、私はその他の人達の権利を無視しているのではなくて、むしろこれは特殊グループの問題ではなくて自由の不平等性に対する「正義」が問われている問題だと思う。したがって、メインテーマではないが、「女性」以外に平穏なアクセス権が侵害されているグループに対しての対策や、AAで生じるかもしれない不利益をどう減らしていくのかも議論するつもりである。

しかし、そのような意味での反対派というのは非常に少ないと思う。多くのアンケートが示している様に男女とも女性専用車両の導入自体には反対という意見は少ない。
アンケートにもよるが、おおむね女性は77〜80%前後が賛成で男性は60〜70%前後が賛成である。1そして(1)に対して反対と思われる女性専用車両反対派もごくわずかだと思われる。

では反対派は何が反対なのか?というと(2)や(3)についてだと思われる、つまり理念に対してではなくて、その運用方法や実際の効果について疑問がある故に反対という立場の人が多いと思う。私は(3)は許容できない。私にとってはこれは正義の問題なので、「女性」という特殊集団の利益を回復するための措置をとる場合でも、同様に不利益を被っている障害者や他のセクシャリテイのグループに対する配慮が欠けてはならないと思う。このような理由で私は1両だけの、そしてAAの条件を満たしていない、「正義」ではなくて、特殊集団の利益拡大の為のように見える現在の女性専用車両という制度に反対するのである。

私の立場も(2)と(3)については賛成とは言えない。(2)について簡潔に言えば、今、首都圏や関西のJR、地下鉄、私鉄などで導入されている“1両だけの女性専用車両”による痴漢対策効果は十分ではないと思う。私の考えはさらにラデイカルで、1両だけの女性専用車両ではなくて、偶数を女性専用車両、奇数を男性専用車両にするべきということである。つまり、私が反対なのは1両だけの女性専用車両ということである。また、この措置をいつまであるいはどのような目標を達成するまで行うのか?が明確になされていないという点である。これは後程考察することにする。

そして、それ以外にもすべき対策があるはずでそれをしないで女性専用車両だけで解決できるとは思わないというのが私の考えである。それ以外の対策とは(1)教育で、性犯罪がヘイトクライムであるという認識(なぜなら性犯罪の被害者の95%以上は女性)を十分に社会全体で共有することや、そしてその他には(2)痴漢を罰する為の迷惑防止条例ではない代替となる法律の制定というのを考えるべきだと思う。(多くの場合痴漢者に強制わいせつ容疑を適用することは困難なので)2迷惑防止条例は、その罪の与える損害や影響に対して軽すぎるというのが私の印象である。また、そのような法律の策定が、社会の痴漢に対する認識を変えることができると考えている。そして最後に一番重要なのは満員電車の解消、これなくして痴漢対策は不可能。

(2) についても、私はこの女性専用車両という措置が女性のアクセス権確保の為のアファーマテイヴアクションと考えているので、その要件を十分満たすべきだと思う。つまり、これが女性にとって被っていた損害の回復をもたらす対策であるからといって、それによる不利益は不問にされてよいとは思わない、私はこの不利益を最小限にしながらも女性の利益を守る方法を提案したい、つまり、私もこの女性専用車両が考案された背景や理念に反対しているわけではない。これが今回の記事の大まかなスケッチである。また冤罪についても必ず上がる話題だが、私は冤罪の問題は痴漢冤罪に限るものではないと考えている。これは司法全体の問題に思える。

つまり、“男を陥れる為の女”がたくさんいるとは全然思わない。たしかに、そういう人もいるかもしれないが、ごくわずかで他の冤罪で起こりうる冤罪の発生件数それほど統計的に差異があるとも思えない。つまり、私は冤罪の問題は司法システムの一般的な問題の一つに過ぎないと考えている。

なぜなら痴漢だけでなくて札事件でも冤罪は起きるし、今年で言えば村木氏に対する事件なども挙げられる。つまり、特に痴漢という犯罪に対して陥れる女が冤罪を大量に捏造しているという議論はあり得ないと考える。それが正しいとしたら、冤罪は痴漢に対してだけ起きているという証拠が必要だが、それは今上げた例ですでに反駁した。
これがこれからの議論の主な概要である。

(1) なぜ痴漢は重大な性犯罪ですぐにでも対策が打たれなければならないのか?
痴漢というのは性犯罪の一つである。そして性犯罪がヘイトクライムであるから、これを放置しておくということは社会にとって大きな損害であると考えることができる。なぜなら、このヘイトクライムを放置するということは、国家や社会が女性の人権に対して極めて鈍感であり、この卑劣な暴力を野放しにしておくという著しい人権侵害を放置しておくということになる。そして、この人権侵害は犯罪被害者個人が著しい身体的精神的損害を被るというだけではなくて、女性がそのように男性に扱われるということが野放しにされるということは女性に対する有害な(女性は男性によって性的に搾取される存在であるという)性的ステレオタイプの再生産に加担することになり、女性差別を助長しかねないと思う。

また、それだけではなくて、このような犯罪が多く存在することによって、男性VS女性という無意味な対立を生みかねない。なぜなら、性犯罪の被害者からしたら、圧倒的多数の犯罪を行っているのが男性であるにもかかわらず同じ男性は、その犯罪を黙って見過ごすつもりかそれでは、その犯罪者と同じではないか?と男性一般を非難したくなる気持ちは大いに理解できる。あるいは、そのような一般的な男性の性犯罪に対する鈍感な態度が性犯罪を起こさせる閾値を下げているのではないか?と考えたとしても不思議ではない。

そして、損害は直接的な性犯罪被害者に留まらない。そのような痴漢に合わないように対策をしなければならない女性の精神的負担というのは社会にとって経済的損害となりえる。つまり、通勤の前から、そのような注意を常に周囲に払っていなければならないという状況に追い込まれている為に、会社に来る前からかなり精神的に疲弊してしまうということもあり得るし、そうなれば仕事の効率にも大きく影響してくる。ちなみに何らかの痴漢対策を講じているという女性は90%にも上る。3同様に、何らかの冤罪対策をしている男性も約半数に上る。4そして男性も女性同様に会社に行く前から精神的に疲労してしまっている可能性がある。もちろんどちらの場合も共通の敵は痴漢を犯す犯罪者である。

そして警視庁の今年度の資料によれば、管轄内のすべての痴漢認知件数のうち電車内で起きているのは約70%にも上る。5その電車内の痴漢のうち7〜10時の混雑している通勤時間帯に一日のうち全被害のうち40%もの痴漢被害が報告されている。6つまり電車の混雑具合と痴漢の発生率は強い相関関係がある。また痴漢が深刻なのは、その認知件数に比べて暗数がきわめて多いことだ。法務省総合研究所の資料によると、性犯罪全体の暗数は認知件数の8〜9倍に上る。痴漢に関してはこれよりも少し高いと予想される。7

あるアンケート調査によれば少なくとも1回以上痴漢電車内で被害にあったことがある女性は15%前後で同8%の男性を大きく引き離している。8しかも、この8%という数字にしても、多くは満員電車の中での犯行であり、痴漢犯罪者が男性を女性と間違えてその犯行を犯した可能性が否定できないということを考えると、また女性による男性に対する痴漢というのがほとんどないということから考えれば痴漢が特に女性という属性に対して行われるヘイトクライムという認識は間違えではないだろう。

また別の調査によれば25%ほどの女性が少なくとも1回は痴漢に合っている、この場合電車内以外での痴漢も含む。9また「痴漢犯罪No!鉄道利用者の会」が行った女子高生に対する調査によれば電車内で少なくとも1回以上犯罪に会ったことがある女性は71%にも上る。10この調査はサンプルサイズが非常に少ないこと、とサンプルが一番被害者が多い10代であるということから考えて全体的にこのような傾向があると一般化することはできない。

つまり、先ほど上げた25%というのが妥当と思われる。つまり、少なくとも4人に一人の女性が今までに何らかの痴漢被害に遭遇しているということである。これは痴漢が女性にとって非常に恐ろしい犯罪であるということがわかる。この性犯罪被害の非対称性が、痴漢という犯罪に対する男女の認識の違いを形成している一要因といえる。また、痴漢に対する男女の認識差が顕著なのは、この痴漢に対する恐怖という項目だけではなくて、それが女性に対する侮辱。蔑視であるという点である。11 

つまり、痴漢という犯罪は女性にとってだけではなくて男性にとっても、また、すべての人にとって非常に有害なヘイトクライムであるといえる。故に即座に対策が打たれるべき問題である、という(1)の前提に対して反対する者はほとんどいないと思われる。

冤罪に関して言えば、確かに冤罪であった場合にそれが無実であることを立証するのは極めて困難である。「痴漢冤罪救済ネットワーク」の調べによれば1990〜1999年の間に“容疑”を否認して裁判で戦った人は203名いるが、結果はすべて有罪であった。12最近ではわりと冤罪であることを認める判決が出てきてはいるが、それでもまだ、それが認められる可能性は極めて低い。

このようなことが起きる原因を同ネットワークの荒木立教大学教授によれば、(自称)被害者によりその“被疑者”を駅事務所に同行して、痴漢犯罪者であると告げる行為が私人による現行犯逮捕として扱われているということにあるといえる。つまり、警察側も初めからこの男性を参考人あるいは重要参考人としてではなくて、被疑者として自白を迫る取り調べを行うことにあると述べている。これは痴漢だけに限らない冤罪に起きがちな行為といえる。

あらかじめ被疑者と決めつけた相手に対して、そのような扱いをして、今度は検察がその被疑者にふさわしいストーリーを作り上げる。そして日本の有罪率の高さ99%という数字が示している様に、一度被疑者として取り調べられたらほぼ無罪になる可能性はない。つまり、これは司法制度の問題といえる。痴漢冤罪にだけ起きる現象ではない。

またこのように冤罪は性犯罪とともに非常に重要な問題なのだが、それが性犯罪の解決に対して、優先するか?といわれれば、そうとも言えない、というか別の問題であると考えられる。性犯罪があろうがなかろうが冤罪は起きうるので、冤罪一般の問題は司法制度の問題である。であるから、痴漢冤罪に関しては冤罪一般の問題点を話すという文脈でしっかり議論されるべき内容であろう。つまり女性専用車両の問題とは全く関係がない。

さて、ここまでの議論で(1)の前提についてはほぼすべての人が認識を共有できていると思われる。それに比べれば(2)と(3)の問題は運用上、手続き上の問題なのでさほど深刻な対立とは思われない。

あらかじめ予告しておいたように、私は、今の1両だけを女性専用車両とすることには反対である。それは例えば、1両女性専用車両を作ることで、その他の車両の男性の密度は当然高くなることになる、とするならば、この1両だけの女性専用車両に座れない女性の痴漢に遭遇する確率が高くなることになってしまう。

つまり、1両そういう車両を導入することでその他のすべての車両において痴漢の発生率が上がってしまい全体としては痴漢の認知件数が増えるというのであれば、その導入の効果に疑問が付されるのは事実だろう。実際に女性専用車両を導入後に痴漢の認知件数が増えている路線もあるということを考えれば私の批判が的外れではないといえるだろう。

また、1両だけの導入というのは利便性という点でも疑問が残る。また私は1両だけそういう車両を作るということは、女性を男性から「隔離」していると考えることもでき、むしろ男性によって女性が社会から排除されていることの象徴的意味を持ちかねないと思う。

そして、そのピンクという色で書かれた京王電鉄の女性専用車両という色使いもジェンダーに鈍感な感じが否めない。そのようなマーキングすることで女性を恣意的にレッテル貼りするという効果を持ちかねない。私と似たような批判はブラジルの女性団体が女性専用車両に対して行っている。13

ではこのようなジェンダーに対する鈍感さという批判に答えつつ、さらに効果的に痴漢を減らすためにはどのように女性専用車両を運用したらいいのか?といえば、私は偶数車両全てを女性専用車、奇数車両全てを男性専用者とすることですべての車両で男女を「隔離」することで、すべての女性が女性専用車両に乗れるようにすべきだと思う、そしてこれによって全体としても1両だけそれを導入することで全体の痴漢認知件数が上昇してしまうというパラドクスを回避することができる。

さて、問題はこれを度の様に正当化できるのか?という点である。これに対する私の答えはこれはアファーマテイヴアクションであると考えることができるというものである。なぜこれが女性特権ではなくてアフアーマテイヴアクションといえるのかといえば、この措置の目的は女性が男性にない特権を享受するということにあるわけではなくて、犯罪に合わずに平穏に通勤通学する権利、そしてそれによって被ると思われる社会的不利益に対する対策をするということ以上の意味がないからである。

なぜ特権ではないかというと、これを仮に特権とするのならば、女性と比較した場合に性犯罪に合う可能性が劇的に低い男性はすでに平穏に通勤通学する権利という特権を得ているということになる。つまり、この措置は単に女性にも男性並みの平穏に通勤通学する権利を与えるべきだという議論である。しかし、問題は残る、何かというと、この権利がアファーマテイヴアクションとして正当化されるとしたら、そもそも、この措置がアファーマテイヴアクションが満たすべき条件を満たす必要がある。

これは私の以前の「女性枠」をめぐる議論に関する記事http://yutakioka.jugem.jp/?eid=53で示しておいた通りのあの条件である。つまり(1)クオーター制ではない。(2)プログラムの目的と手段の適合性。また数値目標を設定する場合は、その数字の設定根拠の呈示。(3)プログラムの柔軟性。目的と手段の適合性が常に保たれるように措置を変更できることと言い換えてもいいだろう。(4)時限を設定する。(5)被差別集団の利益を必要以上に制限しないこと。を満たす必要がある。

そして今の女性専用車両はこの場合(1)は関係がないとして、というのは移動の自由に関する話なので。(5)に関しては、今の1両だけ導入という制度ではこれを見たしているとは言えない、なぜなら、乗れる車両の数で言えば、男性だけが1車両分乗れなくなるという一方的な損害を被ることになるので、これが女性専用車両に反対する男性が男性差別と感じる点である、そしてその感覚は正当だ、当然あの措置がAAとしても、この条件(5)を満たしていない。ではどうするかこの措置自体を諦める必要があるのか?ない。

じゃあどうするのかというと、先ほど私が提案した偶数、奇数で男女を完全に「隔離」すれば、男性、女性ともに乗れる車両の数は同数になる、車両数が奇数の場合は例えば先頭車両だけは男性でも女性でも乗れる車両ということにしておけばいい。

そうすれば奇数の時と同様の車両数に男女ともが乗れる可能性があることになるので、この(5)の男性差別という批判を無効にできる。なぜなら、この場合男性も男性専用車両に乗ることで痴漢冤罪に会う確率を下げることができるから、そして冤罪対策の努力をする必要がなくなることは男性にとっても大きな利益。

だから、私は1両の女性専用車両には反対なのである。しかも、このように「隔離」すれば、1両だけの女性専用車両よりも劇的な痴漢犯罪被害者を減らすことができるし、女性が女性専用車両に乗るためにわざわざ乗り換えから遠い場所にある車両に乗り込まなければならないという不満を解消することができる。偶数車両ならどこでも女性専用車両なので。またこのように女性専用車両を定めているので、特別なピンクのマーキングなど必要がない。これも女性団体からの批判にも答えられる。

残るは(2)、(3)である。目的と手段の適合性についても、偶数車両全てを女性専用車両にすることで、全体としての痴漢発生件数を減らすという目的に対する手段としては適切といえる。1両だけを女性専用車両とするような時のようなパラドックスは起きない。また車両比率は随時利用者数に合わせて変更されるべきだ。そして、ジェンダーに関係ない誰でも車両を導入すべきだ。

さて、次は(3)の条件である。私はこのAAの時限は30年に設定したい。30年限定の時限または、痴漢の認知件数が1/20程度、つまり、男性と同程度の痴漢認知件数に成ったらこの「隔離」措置を解除すべきだと思う。そして、この措置を解除しても痴漢認知件数が上昇しないように教育(性犯罪がヘイトクライムであるという認識の共有)・司法制度(痴漢に対する法律の厳罰化)の改正、そして何よりも痴漢の元凶となっている満員電車の解消を求める。30年あればできると思う。これらの条件をすべて整えた上で、私は偶数車両全てを女性専用車両、奇数すべてを男性専用車両にするというAAを行うべきだと思う。


男ー女二元論を超えて、そして今後の課題について。

これまで議論してきた内容は主に男ー女という図式での「女性」のアクセス権を度の様に擁護していったらよいのか?という話であった。しかし、アクセス権をめぐる問題はこのような単純な図式には還元されえないというのもまた事実である。セクシャリテイといっても同性愛、異性愛、両性愛、そしてトランスジェンダーという場合もあり得るほど人間のセクシャリテイは多様である。であるから、ここではメインのテーマとしては議題の俎上には上っていないが、性犯罪を男→女という形で権力関係という単純な構図には還元できないのである。

男ー女という分類に当てはまらない人はどうすればよいのか?

それぞれのセクシャリテイのアクセス権を考える上では、それぞれの権力関係の背景を別個に考えていく必要があるだろう。仮に車両を分けたとしても同性愛者による犯罪は起きうるだろうし、トランスジェンダーの人による犯罪が起きる場合もあり得る、それによる被害者も当然発生する。そのように考えるとこのような解決法だけでは、どうしても男ー女という区別で定義できる人の権利にのみ焦点を当ててしまっているという批判は免れ得ないだろう。

この批判に対しては別途それぞれの状況に合わせた議論を今後していくつもりである。この議論では触れなかったが、それはこのような多様なセクシャリテイのあり方を無視しているというわけではなくて、別のフレームワークの元に別の背景を基に議論する必要があると考えたからである。男ー女という軸でそれを議論するというのはあまりに問題を単純化しすぎていると考えるので。ただし、この男女に当てはまらない人達の権利を無視することは絶対にできない。私はその対策としてだれでも車両を導入するべきだと考える。この誰でも車両はジェンダー、障害の有無などに関わらず誰でも乗れる車両として残す、今までの車両の良い部分は温存したい。

障害者と介助者はどの車両に乗るべきなのか?

そして、マイノリテイのアクセス権の平等ということであれば、当然知的・身体障害者あるいは車いす利用、なんらかの障害を抱える個人のアクセス権をどのように擁護すべきか?という問題があるのも事実だと思う。その問題についていえば、例えば今できる対策としては、すべての駅にエレベーターを設置する、点字による地図や案内板を増やす、階段をすべてスロープに変えるなどできる事は多いと思う。そして全盲の個人が盲導犬と一緒に電車に乗り込むということができやすいような慣習を作ることなどが大切だと思う。この議論も別の機会にメインのテーマとしてしていきたいと思う。

また障害者と介助者が別々のジェンダーの場合どうしたらよいのか?という疑問が当然出てくると思う。仮に障害者と介助者が分かれて乗らなければならなくなった場合、これは間接的な意味で、障害者差別という制度になりかねない。ではどうするか、対策は二つある。

(a)障害者、介助者はどの車両での乗ることができるようにする。(b)障害者と介助者のジェンダーが異なる場合はどちらかのジェンダーに合わせて乗れるようにする。

私は(b)の方を採用したい。なぜなら、(a)の場合障害者の性欲を否定する可能性があるからだ。男性障害者の場合女性専用車両にも乗れるとするならば、健常者の男性が女性専用車両に乗れないことと矛盾が生じる。なぜこの矛盾が生じるのかというと、それは、障害者の男性は性犯罪を犯す可能性がないからということを前提にしているといえる。とするならば、それは障害者には性欲がないという議論にもなりかねない。私はこれは偏見だと思う。
それを防ぐために、健常者男性・女性と障害者男性・女性の条件を平等にしつつも彼らの利益を損ねないためには、(b)の対策をとる方がより障害者の人権・アクセス権を守ることができるだろう。

また男女専用車両、だれでも車両の比率については随意その利用者割合を調査しつつ補正していく必要があると思う。また「隔離」を原理主義的に行う必要はないと思う。その利用者の数に応じて車両を割り当てたとしても、もしかしたら、混雑率に差が出るかもしれない。その場合はどうするのかというと、例えば女性専用車両が極端に空いていて、男性専用車両が極端に混んでいる場合は、女性専用車両利用者の優先という原則は変えられないけれども、もし、その車両にいる女性が反対しないのであれば、男性がその車両を利用するのは混雑率が100%を超えない程度であれば認められるべきだとも思う。

アファーマテイヴアクションは「サービス」ではなくて「正義」の問題だ。

この様に、私はこの議論を「女性」のアクセス権に矮小化するのは反対であるし、また、その導入によって障害者の利益が損なわれることが無視されるということにも賛成できない。であるから冒頭の(3)には上記の理由で反対なのである。つまり、女性専用車両を導入するとしても、それが、男性あるいは他のジェンダーの人達、そして、障害を持つ人に対しての過剰な暴力とならないような配慮が必要なのである。「正義」の問題だからこそ一特殊集団の利益の拡大と思われないような形でのAAをする必要がある。だから慎重な制度設計が必要だ。

アクセス権が脅かされているのは「女性」だけではないので、障害者も他のセクシャルマイノリテイの人の場合も同じなのだ、だからこれは「女性」の問題ではない、あるいはサービスという話でもない、「正義」のすべての人の自由の平等性問題なのだ。だからこそ、このアファーマテイヴアクションは先ほどの条件を守ったうえで実行されるべきだと思う。


他者の自由の平等をどう確保していくかということに対する姿勢は自らの自由がどの程度他者から尊重されるかということを決定する要素といえるので、単純にマイノリテイ=「他者」の問題ではないのだ。これらの問題を「我々」の問題として共有できるようなリベラルな社会が望ましいと私は考えている。自由の平等性は社会の安定性に直接かかわってくる因子である。

これらの問題を「我々の問題」と認識することができるようになるためには、自由の平等性に関する重なり合う合意が自律した市民間で形成されなければならない。14そして、そのために有効な認識装置が無知のベールによる自律した市民の反証的均衡への真摯な議論が必要である、(拒否するのは筋が通らない)(スキャンロン)という基準まで論議を尽くす必要がある。15そして、それは公共的理性の討議実践により正当化されなければならない。16

Note
1. 居長正広、川端多津子、寺野朱美、橋爪由紀 (2008)「女性専用車両の学際的研究」大阪府立大学大学院人間社会学研究科人間科学
2.同
3.同
4.岡部千鶴(2004)「女性専用車両に関する一考察〜痴漢被害の実態とともに〜」久留米女子大学研究紀要、
 27、57〜66
5.警視庁資料http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kouhoushi/no1/koramu/koramu8.htm#02
6.同
7.法務省法務総合研究所平成20年度案数調査http://www.moj.go.jp/content/000010429.pdf
8.居長正広、川端多津子、寺野朱美、橋爪由紀(2008「女性専用車両の学際的研究」大阪府立大学大学院人間  社会学研究科人間科学
9.同
10.「痴漢犯罪No!鉄道利用者の会」http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/4567/
11.居長正広、川端多津子、寺野朱美、橋爪由紀 (2008)「女性専用車両の学際的研究」大阪府立大学大学院人間社会学研究科人間科学
12.痴漢冤罪防止ネットワーク
http://www.rikkyo.ne.jp/univ/araki/chikanenzai/shiryou.htm
13.居長正広、川端多津子、寺野朱美、橋爪由紀 (2008)「女性専用車両の学際的研究」大阪府立大学大学院人間社会学研究科人間科学
14.J.Rawls(1993)Political Liberalism, New York.
15. ユルゲン・ハーバーマス(2004)「他者の受容」法政大学出版局
16. 同

In Search for Etiology of Cerebral Lateralization for Emotional Recognition: Compare and Contrast with the Right Hemisphere hypothesis and the Valance Hypothesis.

  • 2011.12.11 Sunday
  • 06:48
In Search for Etiology of Cerebral Lateralization for Emotional Recognition

An increasing amount of research has investigated how emotion processing is lateralized in the human brain (Bourne & Gray, 2009; Bourne 2008; Burt et al., 2009; Workman, Chilvers, Yeomans & Tylor, 2006; Balconi & Mazza, 2006). Recent research suggests two different hypotheses to elucidate the brain asymmetry in response to emotional stimuli.

The right hemisphere hypothesis supposes that the right hemisphere is specialized for the perception, expression, and experience of emotion, regardless of the valance (negative to positive) and intensity of the emotional content (Davidson & Schwartz, 1976; Bourne 2010). A study examined the development of cerebral lateralization for recognition of emotion by chimeric face(a face composed by different emotions in each side) tests in different age period, 5-6years old, 7-8 years old and 10-11 years old.

This research demonstrated that there was observed right hemispheric biases for every emotion such as, anger, happy, sad, disgust, surprise and fear in 10-11years old children, which is consistent with the adult subjects.

On the other hand, there was observed right hemisphere bias for only happy emotion in 5-6 years old children. Moreover, 7-8 year old subjects showed more adult-like tendency than 5-6 subjects, but less than 10-11 year old subjects (Workman, Chilvers, Yeomans & Tylor, 2006). The results of this study are consistent with right hemisphere hypothesis in 10-11 children because they showed strong left visual field bias (right hemisphere bias) regardless of the valence of emotion.

Moreover, they also find interesting differences in lateralization based on valence. Positive emotion recognition is more lateralized than negative emotion recognition regardless of the age.

Furthermore, there are individual differences in lateralization to emotional stimuli. These results suggest two implications. First, cerebral lateralization of emotional recognition is developing between 5 and 11 years old. Second, there is strong right hemisphere bias for emotional recognition after 11 years old. They, however, did not research what factors are correlated with the development of the lateralization of emotional recognition.

Aljuhanay et al., (2009) investigated the emotional recognition process between adults and children because this strategy difference might cause different lateralization effects for emotional recognition. Prior research suggested that children would use “featural processing”, that is initially recognizing facial features such as distinctive eyes or noses.

On the other hand, adults would tend to use a “configural processing” strategy to recognize emotion. A “Configural processing” strategy is focusing on spatial relationships between the individual features of the faces.

This is two-step process. First, a face was defined as a different category from other stimuli. Second, the spatial information was utilized for identifying individual faces. In this study, they found consistent result with the prior study that children and adults recognized facial emotion differently, although regardless of the age, right hemispheric bias was found. This is inconsistent with the result of Workman and colleagues (2006) who found that age difference is associated with lateralization for emotional recognition.

Bourne and Gray (2009) examined the possible factor which is correlated with hemispheric lateralization. They measured 2D:4D ratio which indicates the influence of prenatal exposure of testosterone and estrogen. Comparative length of the second and the fourth digit (2D:4D) is associated with higher levels of prenatal testosterone and lower levels of prenatal estrogen. This relationship was initially suggested by Manning et al. (1998) and several studies support their suggestion.

Children with congenital adrenal hyperplasia tend to have lower 2D:4D ratios (Mathews et al., 2004). Lutchmaya et al., (2004) directly measured the testosterone level in the amniotic fluid and found an association with 2D:4D ratio. Bourne and Gray (2009) found an association between 2D:4D ratio and right hemispheric lateralization. The lower the 2D:4D ratio is the stronger the right hemispheric lateralization.

However, alternative hypotheses were also formulated on the lateralization effect of facial emotional recognition. The valance hypothesis is one of them. This hypothesis supposes that the cortical functional differences encoding emotional information are based on the valance of emotion: right hemisphere is specialized for negative emotions and left hemisphere is specialized for positive emotions (Everhart, Carpenter, Carmona, Ethridge, & Demure, 2003; Silberman & Weingartner, 1986).

This hypothesis is also supported by several studies. Everhart and Harrison (2000) demonstrated that negative faces were more rapidly identified if the stimuli were placed in the right visual field. Some EEG research has revealed that relative increase of left hemisphere activity was found with positive emotional stimuli (Davidson & Henriques, 2000)

Although several studies have examined the process of the lateralization of emotional recognition, two fundamental issues remained. First, there is not enough evidence about which hypothesis―right hemisphere hypothesis and valence hypothesis― can be correct. Second, regardless of the hypothesis, it is unknown what kind of social and/or personal factors might contribute to influencing individual differences in the lateralization for emotional recognition other than hormone.

Political attitude, personal, social and environmental factors can also contribute to developing cerebral hemispheric lateralization. Oxley et al., (2008) demonstrated the correlation between conservatism and sensitivity to emotional stimuli. This could have associations with lateralization for emotional recognition. The direct relationship is unknown; however, personal trait may have association with cerebral lateralization.

One study revealed that openness is negatively correlated with conservatism, and conscientiousness is positively correlated with conservatism. The correlation between other personal traits and conservatism are inconsistent (Vecchione, 2011). These results indicated that personal traits are correlated with political attitude, and political attitude may be correlated with cerebral lateralization.

Wong, Fung, Chua, and McAlonan (2008) demonstrated that people with autism displayed reduced right hemisphere activity in comparison to normal controls when viewing emotional faces. Nevertheless, Harris and Lindell (2008) found that people with high autistic-like traits showed right hemispheric lateralization bias when viewing emotional faces. This tendency showed the same result when people with low autistic-like traits were viewing happy faces. This result indicates that people with high autistic-like traits but not autistic disorder have an intact facial recognition processing system.

Social anhedonia personality trait which is characterized by a reduced desire for social affiliation and reduced pleasure derived from interpersonal interactions (Germine, Garrido, Bruce and Hooker, 2011). The high SA group showed reduced activity in the anterior rostal medial frontal cortex, right superior temporal gyrus, and somatosensory cortex in comparison to the low SA group when viewing emotional stimuli(Germine, Garrido, Bruce and hooker, 2011).These three areas are the part of the neural network to process emotional recognition.

The arMFC activity is associated with mentalizing, and other aspects of social cognition. This area is associated with abnormal emotional recognition process in schizophrenic individuals (Brunet-Gouet and Decety, 2006).

The superior temporal gyrus and sulcus are involved in perceptual processing of dynamic social stimuli including facial expressions of emotion, eye gaze and movement of lips(Haxby et al., 2000; Hooker et al., 2003, 2008, 2010). Moreover STS is involved in processing complex social emotion recognition processes including recognizing appraisal of intention or context of facial expression (Pourtois et al., 2004).

The somatosensory cortex are thought to contribute to emotional processing by allowing facial expressions to be understood using an internal representation of a facial expression maintained in one’s own somatosensory cortex (Adolphs et al., 2000; Heberliein et al., 2008; Hooker et al., 2008). The somatosensory cortex have dissociable role with superior gyrus and sulcus in emotional processing. Lesion of somatosensory cortex leads to impairment in emotional discrimination of the same facial expression.

Although these deactivation areas were found in high SA subjects, it was unclear whether this is a cause or consequence. People with schizophrenic personality traits showed poor emotional recognition response including sensitivity for detecting emotional prosody. This, however, cannot be attributed to abnormal activation of right hemisphere (Castro and Pearson, 2011).

Socioeconomic status was also thought to be the factor which may contribute to developing cerebral lateralization. High socioeconomic status may positively correlate with cerebral lateralization and low socioeconomic status may negatively correlate with cerebral lateralization (Boles, 2011).

Although cerebral lateralization for emotional recognition has been induced since 5 years old, there is no compelling evidence about what factor would cause this phenomena and how it would be develop. Further researches is needed to shed light on the processes of emotional recognition which is necessary process of acquiring social information and to find out etiology of the lateralization to treatment for the individuals with poor emotional recognition ability.

References

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A role for somatosensory cortices in the visual recognition of emotional as revealed by three dimensional lesion mapping. Journal of Neuroscience, 20, 2683-2690.

Aljuhanay, A., Milene, E., Burt, M.D., Pasalis, O.(2009).Asymmetry in face processing during childhood measure with chimeric faces. Psychology Press, 440-450.

Balconi, M., & Mazza, G. (2010). Lateralisation effect in comprehension of emotional facial expression: A comparison between EEG alpha band power and behavioral inhibition (BIS) and activation (BAS) system. Laterality, 15,361-384.

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ホームランが減ると観客が減る?ナベツネ理論の検証:巨人と阪神の場合。

  • 2011.11.22 Tuesday
  • 12:51
今年のプロ野球もソフトバンクホークスの日本シリーズ制覇を持ってようやく終了しました。(ホークスファンの皆様おめでとうございます。)(中日の日本一予想をしていましたすみません。)

そんな今年のプロ野球でしたが、今年は大きな変化がありました、“飛ばない”ボールの導入とストライクゾーンの統一です。実際にこの“飛ばない”ボールの効果は劇的で、巨人の場合一試合当たりのホームラン数は前年と比べると1.57→0.75、阪神の場合は、1.20→0.56と50%以上減少しました。また巨人、阪神ともに一試合当たりの観客動員数を減らしました。巨人の場合は前年比10%減少、阪神の場合は6%ほど減少しました。

そこで、レギュラーシーズン終了後に渡辺恒夫読売新聞社主筆が、この巨人の一試合当たりの観客動員数の原因を問われて、こう答えました「ホームラン数の減少が、観客動員数の減少を招いた」と。そこで今回はこのナベツネ理論が正しいのかどうかを巨人・阪神の二つの球団のデータにより検証してみようと思います。

巨人と阪神の二球団をその検証対象に挙げる理由は(1)伝統ある球団で経営母体が変わっていないので、ファン層の変化も著しく変化していないという点(つまり他球団に比べた場合に経営母体の変化によるファン層変化による観客の志向性の変化という要因の影響を他球団に比べて排除できる)(2)本拠地が一貫して同一の場所にある。(これもファン層があまり変化しないという利点がある。(3)50年以上にわたる詳細な観客動員数のデータがあるという点です。

これらの点からナベツネ理論を検証する場合この二球団のデータから、一試合当たりのホームラン数と一試合当たりのホームゲームの観客動員数の相関係数を計算してみました。

すると、データのある1952年から2011年終了までの巨人の場合のこれらの相関係数は約0.65、そして観客動員数の実数発表以後(2005〜2011)だと、0.74なので、巨人に関して言えばナベツネ理論は長期的にも短期的なトレンドとしても正しい=一試合当たりのホームラン数と観客動員数には強い相関関係がみられる。

一方で阪神の場合、同様に1952から2011年までの相関係数は約0.28、そして実数発表以後だと約0.81なので、阪神の場合は長期的には弱い相関しかないが、短期的なトレンドとしては巨人以上にホームラン数と観客動員数に強い相関がみられる。

とはいえ、これが他球団へと一般化できるかどうかはわからない、例えば今年のスワローズはホームラン減にもかかわらず一試合あたりの観客動員数は大幅増であるし、今年の場合に関して言えば、震災の影響などに自粛ムードというのが流れてた影響というのも大きいので、今年が外れ値である可能性も否定できない。それでも巨人・阪神の長期トレンドに関しては、その影響はほぼないので、信頼はできる。

ただ、ホームラン数と観客動員数の間に強い相関があることは、“飛ばないボール”をやめる理由にはなりえないしし、既述のようにそもそも一般化することはできない、それなのに一般化したような物言いをする渡辺恒夫氏には不快感を覚える。これは明白な論理的誤謬だ。

また一試合当たりのホームラン数も前半戦と後半戦では異なっているので、少なくとも、選手がそれに慣れれば、来年は今年のような落ち込みになるとは思えない。そういう意味でボールの見直しなどの議論は導入後数年たってからのデータで判断するべきだと思う。今結論を出そうとするのはあまりに性急すぎる。

“飛ばないボール”を導入したことで、各球団のコーチ陣が大型スラッガーの育成競争を始めれば、それは長期的にはプラスに思える。より厳しい環境であればそれだけ各打者が工夫しなければホームランが打てなくなるというのは、“本物”だけが生き残れる世界になるという意味で、以前よりも打てるホームラン打者が際立つことができるので、打てるバッターにとっては公平な評価をされやすくなるので、私は歓迎したい。

今年のおかわり君こと中村がいい例。逆に言えば、飛ばないボールのおかげで防御率が下がったという風に投手は評価されるので、実力がある投手が割を食う可能性はある。このボールでも大した成績を残せなかった西武の涌井には厳しいシーズンが待っているにちがいない。

参考URL

http://bis.npb.or.jp/teams/yearly_g.html
http://baseball-freak.com/audience/
http://www.my-favorite-giants.net/giants_data/audience.htm
http://www.jttk.zaq.ne.jp/

効率の良い情報選択方法または情報評価方法について。

  • 2011.10.23 Sunday
  • 05:59
インターネット、ソーシャルメディアなど、様々な情報伝達媒体の発達により、ある時点における取得可能な情報の絶対量というのは増えている。その取得できる情報の絶対量に比べて、価値があるといえる情報量は、残念ながら必ずしも同じような割合で増えているとは言い難い。となると、今後も情報伝達媒体が発達すればするほど、無駄と思える情報の絶対量が増えていることになる。

したがって、皮肉なことに、情報伝達媒体の発達により、取得できる情報量の平等性という情報取得方法の民主化を推進してきた、正にそれと同じ原理により、今度は、その価値ある情報を取得できる人と、価値のない情報をつかまされる人との二極化は今後も進んでいくと思われる。言い換えるならば、「ネットは賢い人をより賢くして、無知な人をより無知にしていく」、ある種の知的序列化システムの様相を呈してきているということもできるだろう。

そして、その序列化システムがまた同時に公共性をも担っているソーシャルメディア等で現前したりする場合も多々みられ、このようなケースが増えていることから、ソーシャルメディアはバカ発見器などといわれ手いる側面はある。それは先ほどの命題「賢い人はより賢く、無知な人はより無知になっていく」より演繹される当然の帰結である。

賢い人も無知な人も同程度の割合で増えていると仮定した場合でも、どうしても無知な人の行動の方が目につきやすいので、全体の印象としては、どうもこちらの方が優勢になる。これは人間の記憶のシステムから考えても当然といえる。人はpositiveなことよりもnegativeなことの方が記憶しやすいようにできている。これは生存により有利に働くのは後者であるから、自然選択の結果そのような遺伝子が残ったと考えられる。さて、ではこのような情報過多の時代に有益な情報を効率よく評価・選択する為にはどうしたらよいだろうか?それが今回のテーマである。

また、効率よく取得する必要がある情報というのは、当然主観的な趣味や嗜好に関わるものではない。なぜならこれらの情報は如何に効率が悪くても、それでもそのような情報を得たいと思えるものであるからさほど問題にならない。オタクがその趣味の情報を得るために如何に非効率な方法で多大な時間をそれに費やしているかを考えれば分かる話。

従って効率が良い情報選択・評価方法の対象となるのは多かれ少なかれ、個人の関心(主観世界)を超えた公共的な関心に関わる情報ということになる。であるならば、これらの情報に対する効率よい選択手順は以下のようになる。(1)その情報の根拠が合理的であるかどうか。(2)その情報が客観性を用いるのかどうか。なぜこの順番であるかというと、(1)が成り立たなければ(2)はそもそも成り立つ可能性がないので。


また合理的根拠という基準の中にもまたいくつかの明確な手順が存在する。(a)論理的妥当かどうか(b)反証可能かどうか。(c)実際に(a),(b)を指示する為のデータがあるかどうか。(d)そのデータの信用性がどれほど高いのか。(e)その言説の適用範囲はどの程度なのか。

(a)について。

「論理と論理的妥当性の定義」http://yutakioka.jugem.jpの以前の記事でも書いた通り論理というのはその命題同士の形式的関係性についての真偽を決定する為の方法であり、その前提自体が正しいかどうかということを検証する為の方法ではない。だから内容以前の真偽に関わるので、当然論理的妥当性というのが一番初めに検証されるべき手順といえる。なぜかというと、内容が正しい言説がXあったとする、そのうち論理的妥当でない言説がAあったとする。
この時に内容から確認するという手順で情報選択すると、Xこの言説に対して(b)〜(e)までの手順を用いて検証してかつその後に(a)の検証をするとなる。この場合に情報選択に必要な手数は、一つの情報に対して(4+1)=5なのでそれがX回必要、故に全体としては5X回必要になる。

一方であらかじめ論理的妥当でない言説を弾いておいて、論理的に正しい言説の中だけで内容的にも正しい言説を確認するという手順をとれば、まず1つの情報に対して(a)を適用するだけなのでそれがX個あるわけで、必要な手順は1*XでX回。この手順で検証すべき情報はX-Aに減っている。そしてこのX-Aに対して(b)〜(e)の手順を適用すればいいので4*(X-A)合計すれば、この手順全体では、X+4X-4A=5X-4A<5xとなるので、明らかにこちらの手順の方が効率が良いといえる。しかも、この手順の良い点は論理的に妥当でない言説の割合が多ければ多いほど効率が良くなるという点である。

現実の日常世界を考えてみたらどうだろうか?これは私の推測にすぎないが、3〜4割近い言説は論理的に妥当ではない言説だったりする気がする。仮にこの言説を一例としてみると、A=x*3/10となる。これを5x-4Aに代入してみると、3.8xとなるこれを5xでわると、この手順をこの場合に適用すれば、20%以上の時間の節約になることがわかる。仮にA=0.5であるとすると40%の時間の節約になる。従って形式をチェックする論理的妥当性を初めに確認する方が初めに内容を確認するよりも効率がよいということになる。

(b)について。

(b)の反証可能性があるかどうかというのは、もう少し具体的に言えば、その仮説なり言説がA→Bという論理形式で記述することが可能でかつそのBが何らかの手段によって経験的に観察可能でなければならない。自然科学の仮説はすべてこの形で記述することができるし、それが科学的仮説の条件である。すなわち、反証可能かどうかというのは科学的かどうかと言い換えることができる。

これはポパーの科学の定義。つまりAが独立変数(操作可能な条件)でBが従属変数といえる。この論理構造が間違えといえるのはA真かつB偽の時。分かりやすい例を挙げれば、例のガリレイの有名な実験を思い出せば事足りる。この場合Aにあたるのは、重いものと軽いものの違い、でBにあたるのは、重い物の方が先に落ちるということ。もちろんガリレイはこの実験によりA(真)かつB偽であることを示した。したがって重力に関するアリストテレスの理論は間違えと確定した。

ただし、科学には非常に厄介な問題がある。Bが真である場合でもこの仮説前提はAが偽でも真となる。これが科学が絶対的な正しさに到達できないといわれる由縁である。だから、科学は実験を繰り返して、A事態も偽でないことを示し続けるしかないのである。つまり、科学は何が正しいかを確定する方法ではなくて何が間違っているかを確定する方法に過ぎない。でもだからこそ、新たな理論によるより正しい言説への発展の可能性がいつでもある。

あとは日常にある反証可能ではない言説の例を幾つか上げてみる。「あなたには○○という無意識的○○がある」あるいは「あなたには○○という無意識的バイアスがある」など。「構造」「抑圧」などもこの類にあたる。というより精神分析は一般的に言って反証可能性がない非科学だから私はそういう言説は価値がないと考える。

ではバイアスは存在しないのか?といわれればそれは違う。存在するけど、それを証明する為にはある特殊な実験が必要なので、日常でその実験をせずにこのようなことを言われたら場合は無効といえるというだけの話。仮に私がある被験者に対してあるパラダイム(例えばGo/No Goやodd ball等)でERPのデータ、この場合P300を観察したとして、このP300の無意識的な反応から、この試験者に対して「あなたは○○というバイアスを持っているようです」と私が言った場合は、これは反証可能な科学的言説。なぜなら、同一のパラダイムによりこの言説の真偽が検証できるから。この場合、A(差別意識がある・なし)ならばB(P300が観察できるだろう・できない)というあの論理形式で記述できるので。

またはfMRIでDLPFCの活性具合をランダムサンプルと差別的な傾向がありそうなサンプルとで比較してみればわかる。

だから、EEGすら使われていないのに「無意識の○○があるとかバイアスがある」などということを平然と言えてしまう人に対してはかなり嘲笑の眼差しを向けている。似非科学の良い例なので。実験室で直接EEGなどを使って実験されていない場合に差別意識とかバイアスとか言われた場合は似非科学なので全く気にする必要はない、どころか似非科学として非難すべきであると私は考える。実際私はそういう言説を目にするたびに似非科学批判をしている。

(c)は(b)の形式で記述された言説のデータがあるかないかという話。そのまま。

(d)について。

(d)はそのデータの信用性についてだが、これはサンプルサイズや実験方法(二十盲検法なのかどうかやプラシーボ効果ではないかなど)を検証するということ。そして再現性の有無(Internal reliability)

(e)について。

(e)はその効果が実験室内の特殊な条件下でだけ成り立つのか、それとも一般化することができるのかという点である。いわゆるecological validityとかexternal reliabilityなどといわれている問題である。

日常生活における情報判断であれば合理性の確認の為に、たぶんここまですべてする必要はない。推測にすぎないが、おそらく(a),(b),(c)の確認だけでも8〜9割くらいの無駄な情報は切れる。

客観性について。

仮にこれらの合理的根拠のフィルターを通過した言説や仮説があった場合に今度はそれが客観性を持ちうるかどうかという話になる。今日は「客観性」を厳密に定義することが目的ではないので簡潔に書いておくが、今までしてきた合理的根拠の確認手順(a)〜(e)を他者が同様にしてみた場合でも成立する可能性があるかどうかということである。そしてそれが成立する可能性が高ければ高いほど客観的といえる。私は主観と客観は連続的なものと考えているので、0か1かではなくて。もう一つ具体的に使える客観性の基準はある言説がその発言者自信を除外または特別視していないかどうかという話である。また心理主義的言説は客観性がないといえる。

例えば日常よく使われる「社会」や「構造」という言葉が客観提起でない場合が多いと私が判断を下す多くの理由は、その定義が心理主義であり普遍的な要素が示されていなかったり、反証可能ではないからだ。先ほど述べたように合理的でない言説は客観的とはなりえない。

最後に誤解がないように再度強調しておくが、私がここで述べた情報選択・評価方法は、主観的でなくて、公共的な関心に関わる時にのみ必要になってくる話であって、そうでない場合のコミュニケーションや情報を選択する場面であれば、必ずしもこのような方法をとることが効果的かどうかは言えない。

逆に言えば、このような手順で選択・評価された情報でなければ、公共的なコミュニケーション、例えば「議論」や「討論」などの時に相手にその意見の承認や説得あるいは意見提示をすることの正当性は保証されないし、むしろ暴力とさえいえる場合もある。だから言説の正当性は結論ではなくて根拠の種類あるいはどの点準まで検証されている言説なのかを確認することが大切である。







日常生活で役立つ論理的思考法について。:カルナップーゲーデルーチューリング。

  • 2011.10.13 Thursday
  • 19:15
"The development of mathematics toward greater precision has led, as is well known, to the formalization of large tracts of it, so that one can prove ant theorem using nothing but a few mathematical rules.The most two comprehensible systems that have been set up hitherto are the system of Principia Mathematica(PM) on the one hand the Zeromelo-Frankel System of set theory(further developed by von Neumann)on the other... One might therefore conjecture that these axioms and rules of inferences are sufficient to decide any mathematical questions that can all be formally expressed in these system...On the contrary there are in the two systems mentioned relatively simple problem in the theory of integers that cannot be decided on the basis of the axioms. This situation is not in any way due to the special nature of the system that have been set up but holds for a wide class of formal system"(Gödel 1931).





「論理と論理的妥当性の定義」

論理という用語は日常生活でもよく耳にするが、たびたび数学的な意味での「論理」という言葉の意味とは異なる使われ方をされている場合が多く、非常に困惑する場面が多い。あるロジカルシンキング的な著作を書いている著者と話す機会があったのだが、彼に彼のロジカルシンキング、あるいはロジカルパターンという言葉と記号(形式)論理との関連性を質問したことが、驚くべきことに彼の返答は「ロジカルパターンは記号(形式)論理とは全く関係がありません」とのことで、あいた口が塞がらなかった。

このようにロジカルあるいは論理と名前の付く著作を上梓している人ですら誤用するくらいなので、普段記号論理に触れる機会がない人が、論理という言葉を間違った意味で使っていることが多いとしても、それは仕方がないことのように思えるし、多くの人にとって、記号論理を学習する機会が多いとも思えないので、それは仕方がないことに思える。

私のこの記事での目的は非常に基礎的な記号論理の意味での論理的妥当性についての話と、その検証方法、そして日常生活でもよく目にする論理的に妥当ではない推論の具体例を幾つかあげることである。この記事の目的上、完全性や決定性についての厳密な議論には踏み込まないことにする。なので今ここで上げる例は決定可能な言説について議論していると考えて頂きたい。(それは別の機会にそれだけをテーマに記事を書こいた方がよさそうなので。)

また日常的に使われる「論理的でない」という言葉の意味についても考えてみたいと思う。ここでは記号論理が出てきますが、それ自体はメインテーマではないので読み飛ばして頂いてかまいません。ただ例として挙げているだけです。メインテーマは如何に論理が日常とかかわりを持つか、それは何を証明できるのか、そして、その論理と社会はどのように関わりを持つのか?という点です。論理は意味論、語用論、コミュニケーション論などと関わることによって日常生活とかかわりを持ちます。なので命題の証明はテーマではありません。あくまで具体例として挙げているだけです。

カルナップが定義したように言語哲学には大きく分けて3つの領域がある。統語論、意味論、語用論。この中で論理が仕様される領域は統語論の中の一領域である構文論。だから、当然論理的妥当性などが意味論、語用論の世界に直接的には関わりがない。

むしろ意味論、語用論によりナンセンスでない文が論理体系の中で分析されうる。この区別を簡潔な例でしめすと、AならばBだ、という文があったとして、このAやBの意味を決定するのが意味論で、この意味論で決定された言葉によって構成された文章の真偽または文章同士の関係性について分析するのが構文論、そして論理はその構文論の中でも妥当性と一貫性に関わる。そして、その構文論的に分析された意味をそれが属するコンテクストとの関係性の中で分析するのが語用論。あるいは1+1=2という文の”正しさ”を決定するのは論理。これはロビンソン算術の公理、あるいはペアノの公理から演繹でき、証明できる。

ロビンソン算術の公理を使うと1+1≠2として

s0+s0≠ss0
s0+s0=s(s0+0)
s0+0=s0
s(s0)=ss0
s0+s0=ss0
s0=1 ss0=2なので
1+1=2これは仮定の否定1+1≠2と矛盾する
従って、仮定1+1=2は"正しい"=(論理的妥当)

しかし、この1が何を意味するかは意味論の範囲で、1+1=2という言説により引き起こされる効果を分析するのは語用論、コミュニケーション論。

だから当然誰が行ったか、どういう意味かという問題には論理は答えないし関係がないし答えられない。だから文の意味を確定するにはこれらのすべての分野による分析が必要である。しかし、これらの中で一番簡単に意味のない文や命題などを避けることができるのが構文論=論理なので、情報の価値を検証する場合に統語論や論理的妥当性を検討するのが合目的。論理体系内にも不完全性はあるが、意味論、語用論ほど無秩序的ではない。つまり、同じ不完全性といってもまるで意味が違う。ここを”ポストモダン科学者”達(デリダ等)は混同しているようだが。例えを使えば、論理体系における不完全性というのは、憲法がありながらも、その憲法内で明確に違憲か合憲かが決められない場合があるという感じで、意味論や語用論における不完全性は、そもそも憲法がない、状態で何が規範として正当化を決めるという感じ。

「論理」の定義は多くの記号論理の教科書に書かれている様に、演繹の科学的推論方法といえる。そして論理的妥当とは「前提がすべて正しい時に結論が正しくなるような推論形式」といえる。前提が正しくても結論が正しくない場合や、結論を否定してみた場合に、すべての前提の間に矛盾が一つも起きない時、その推論形式は論理的妥当ではないといえる。逆に言えば、結論を否定してみた場合に、前提をすべて正しくしようとした場合に矛盾がでれば、その否定前の結論と前提を含む言説は論理的に妥当と決定することができる。

ごく単純な具体例を挙げる、前提を今後P、結論をCで表すとする。ここでP1,P2,Cは関数とする。
P1:xならばy、P2 :yならばz, C:xならばz
これを形式的に書くとこのようになる。
P1:x→y
P2:y→z
C:x→z

この言説の妥当性を検証するには、結論を否定してみて、矛盾がでるかどうかを確かめればよいので、これらの言説の真偽を確かめればよいということになる。
P:x→y
P2: y→z
C:¬(x→z)
Cが真になるには、x∩¬z, P1が真になるためには、¬x∪y,同様にP2が真になるためには、¬y∪z、となる。まずx∩¬zなので、¬x∪yはyでなければならない。つまり、今のところ、x,y, ¬zが真でなければならない。しかし、P2を真にするためにの条件は、¬y∪zなので、¬yの場合y,と同時に成立することがないので、矛盾。またzとしても、これは¬zと矛盾。したがってこの場合すべての言説を同時に真とするような場合はあり得ないので、この言説の否定は間違っている、つまり、元の言説は論理的に妥当であるといえる。

この推論形式は特に三段論法といわれる。もちろんこれは論理的に妥当な推論の一例に過ぎない。

今度は逆に論理的に妥当ではないいくつかの推論形式を挙げてみて、なぜそれが妥当でないのかを示してみることにする。

「多数は正しい」は正しくない。

日常でときどき見かける言説に「多数は正しい」というのがある。これは一般的には論理的に妥当ではない(もしかしたらかなり特殊な解釈をすれば別かもしれないが)。というのは反例(前提が正しくても結論がただしくない場合)がいくでも見つかる。「多数は正しい」という日常語の意味は、「多数である時かつその限りにおいて常に正しい」という意味であるから、これを形式的に書けば、xが多数であるを∃xPxとして、yが正しいを∃yTyと記述する。どちらの場合も、少なくとも一つという意味がこの文章には含蓄されているので。そしてその”多数である集合”と”正しい集合”が一対一で対応しなければいけないので、その条件は∀x ∀y(Px=Ty→x=y)と記述できる。
つまり、

P1∀x ∀y(Px=Ty→x=y)
P2 ∃xPx
C:∃yTy
となる。先ほど同様に妥当性を確かめるには結論の否定を考えればよいからこれは

P1∀x∀y (Px=Ty→x=y)
P2 ∃xPx
C:¬∃yTy
これの妥当性を検証すると、P2にx=aを代入した場合に、この体系は無矛盾になるので、この言説、「多数ならば正しい」は、このモデルによる形式化の場合には論理的妥当ではない。他の形式化を行う場合にはその都度検証する必要があるが。


もう一つ日常的によくなされる論理的に妥当でない推論形式にアナロジーというのがある。アナロジーにもいくつかの種類があるが、ここではよくあげられる例を幾つか上げるにとどめたい。一番素朴なアナロジーの形式はアリストテレスが修辞学で上げてるタイプで、AとBに対する関係はCとBに対する関係と“似てる”からAならばBが正しい時にCならばDが正しいというもの。問題はこの“似てる”という表現を形式的に記述できないこと。“似てる”はイコールではないので。

アナロジーが例外的に形式化できる場合はもちろんある。例えばこの“似てる”の意味が「所属」の場合。例を挙げる。車にはエンジンがるから、フェラーリにもエンジンがある。この場合フェラーリは車という概念の一つと考えられるのでこの推論形式を記述する。xが車であることをCx、xがエンジンを持つことをExとする。そして車ならの正確な意味は、すべての車ならばということなのでこれは∀x( Cx→Ex)となる、またフェラーリは車の一であり、すべてのフェラーリがエンジンを持つという意味なのでこれは∀y(Cy→Ey)となる。つまり
P1: ∀x( Cx→Ex),
C: ∀y(Cy→Ey)
となる。これまた結論の否定を確かめる必要があるので、
P1: ∀x( Cx→Ex),
C: ¬∀y(Cy→Ey)を確かめればよいので、
¬∀y(Cy→Ey)は∃y¬(Cy→Ey)となる。ここでy=aを代入すると、¬(Ca→Ea)
となる。また∀x( Cx→Ex)は( Ca→Ea)となる。これは¬(Ca→Ea)と矛盾。
つまりこの元の推論は論理的妥当といえる。
これの逆は(つまりこれはよくある過度の一般化の例にあたるのだが)、を確かめてみる。
P1: ∀y(Cy→Ey)
C: ¬∀x( Cx→Ex),
先ほど同様の手順で検証すればこれは矛盾が出るので元の推論は正しい。
なので、このアナロジーに限れば、これは同値でもある。しかし、このようなアナロジーは非常にまれで、多くのアナロジーは論理的に妥当ではない。

過度の一般化

帰納的思考というのがある、これもアナロジーの一種といえば一種といえるが、これもよくある論理的妥当でない推論形式の一例といえる。例えば、よくあるのは過度の一般化。例えばこんな感じ、「あるアメリカ人を見た、その人は拳銃を持っていた、したがってすべてのアメリカ人は拳銃を持っている」
この帰納法的思考を形式的に書くと、ある人がアメリカ人であるをAx,ある人が人が拳銃を持つをGxとすると
P1∃x(Ax→Gx)
C: ∀y(Ay→Gy)
となるこれも否定を考えればよいので、
P1∃x(Ax→Gx)
C: ¬∀y(Ay→Gy)
Cは∃y¬(Ay→Gy) y=aとすると、¬(Aa→Ga),そしてx=bとする(∃xなのでaは使えない)
P1は(Ab→Gb)となる。¬(Aa→Ga)はAa∩¬Ga、そして(Ab→Gb)は¬Ab∪Gb、整理すると、
Aa∩¬Gaの時に¬Ab∪Gbであればよい。どちらの場合を考えても無矛盾。したがってこの

言説の元の推論は妥当ではない。次に逆を考えてみる。
P1: ∀y(Ay→Gy)
C:∃x(Ax→Gx)
これまた否定を考える。つまり、

P1: ∀y(Ay→Gy)
C:¬∃x(Ax→Gx)
先ほど同様に条件を書きだすとP1とCが矛盾するつまり、元の推論形式(すべてのアメリカ人が拳銃を持っているならば、あるアメリカ人は拳銃を持っている)は論理的妥当。
つまりこの場合P1とCは同値ではない。

数学的帰納法は名前こそ“帰納”とついているが、これは記号論理で推論規則を記述できるので演繹。
∀P { [P0 ∩∀x (Px→Psx)]→∀xPx}

日ごろたまに目にする間違え「xはAだ」と「xだけがAだ」の違い。

「xはAだ」は∃x Ax

「xだけがAだ」は∃x Ax∩∀y(Ay→y=x)

直感的にも違う=同値ではないというのは分かるが、論理的にも確かめてみると、
∃x Ax
¬∃x (Ax∩∀y(Ay→y=x))
∀x¬(Ax∩∀y(Ay→y=x))
x=a, Aa
¬(Aa∩∀y(Ay→y=a))
¬Aa∪¬∀y(Ay→y=a))
Aaと¬Aaなのでこちらは終了。
∃y¬(Ay→y=a))
¬(Ab→b=a))
Ab,
b≠a
閉じない。
ということで「あなたはAだ」から「あなただけはAだ」は論理的に妥当ではない。

逆も確かめると。
∃x (Ax∩∀y(Ay→y=x))
¬∃x Ax
∀x ¬Ax
x=a
(Aa∩∀y(Ay→y=a))
¬Aa
これで閉じる。
なので当然これは当然正しい。
「あなただけはAだ」から「あなたはAだ」は論理的に妥当。

つまり、同値ではない。

「論理は何の検証に役立つのか?」

このようにして日常にあふれる推論形式は多くの場合簡単(有限界の手順で検証できる)に検証できるので、ある言説を読むに値するかどうかを効率よく選別したいのならば、まずは論理的妥当性を確かめるのが効率が良い。それで妥当でなければ間違った推論なので読む必要はないので無駄な時間を費やさなくてすむ。
ただし、注意してほしいのは論理的妥当性の定義から分かる様に、論理的妥当性が保障するのは推論形式の正しさと正しい前提から成り立つ言説から成り立つ正しい言説かどうかを確かめることができるというだけで、その前提が正しいかどうかということの検証には別の方法が必要。たまにそういう意味論の問題なのに論理的という言葉で表現する人などもいて私は酷く困惑することがある。

例えば「クジラが爬虫類ならば犬は節足動物だ」「犬が節足動物ならば猫は棘皮動物だ」従って「クジラが爬虫類ならば猫は棘皮動物だ」という推論形式は論理的妥当、これは先ほど示した三段論法の一例なので。しかし、なぜこの言説が間違えといえるかというと、それは科学的に誤りである故。つまり、これは語用論=言語ゲームの問題と言ってもいい。

つまり合理的思考法の中でも論理は最も客観性が高い方法ではあるが、当然それで検証できない種類の言説はあるわけで、この例ほど極端ではないにしろ、なので、それを補うための方法として例えば科学や統計がある。あるいは、それに加えて意味論、統語論的な検証も必要な場合はある。だから論理“だけ”ではある言説自体が正しいかどうかを検証はできないが、それを検証する為の一つの強力な道具であることは確か。それはその検証法が客観的であることや論理的妥当な言説は例外が一つもないことが証明できる故。それがすこし科学と異なる点ではある。

「論理的でない」の意味

また「論理的ではない」という言葉の意味だが、私はこれを二つの意味があると思う。(1)論理的に関係性を記述できない(先ほどの「似てる」はその一例、しかし「似てる」をドメイン同士の関係性ではなくて、状態を表す形容詞的な意味で使う場合は定義できる)という場合。(2)論理的に記述可能であるが、検証の結果、それが妥当ではないことが証明された推論形式や言説。

ある言説が論理的に妥当ではないことが証明されている場合、いくら前提を取り除いたとしても、その言説を妥当にすることはできない。これは背理法で証明できるが、簡単に証明できることなのでここでは省略する。

妥当性と説得性」

またここで注意しておきたいことは論理的に妥当な言説だからといって必ずしもそれが他者を説得することに役立つとは限らない場合があること。例えば小さい子供には論理的に妥当な推論よりもアナロジーによる間違った説明をする方が納得してもらえる可能性が高い。だからこそ大人は子供に質問されるのが面倒なので、しばしば論理的ではないアナロジーによる正しくない説明で誤魔化すということをしてしまう。

このような環境で育つと子供も大人になってから同じようにアナロジーによる説明に頼ってしまう傾向があるのだろう。このような環境が「論理」に対する理解を難しくしている原因の一つではないかと私はしばしば感じている。

論理は明らかに正しくない言説を効率的に排除できるので、少しでもその考え方を身に着けておけば、情報判断のみならず、情報収集の効率を向上にも役に立つので、日常生活にも非常に役に立つと私は思う。

妥当性と説得性の関係性というのは語用論、コミュニケーション論の範囲の問題となるので、それについては別の記事を御覧下さい。http://yutakioka.jugem.jp/?eid=60,http://yutakioka.jugem.jp/?eid=57。

またゲーデルは記号論理の限界をチューリングのゲーデルの疑問(初めの引用で示されていた完全性に対する問題)に対するアデンダムでこのように語っている。

"In consequences of later advances , in particular of the face that due to A.N.Turing's Work a precise and unquestionably adequate definition of the general notion of formal system can now given, a completely general version of the theorem VI and XI is n consistent ow possible. That is, it can be proved rigorously that in every consistent formal system that contains certain amount of finitary number theory there exist undecidable arithmetic propositions and that, moreover, the consistency of any such system cannot be proved in the system"(Gödel 1936).



社会的行為成立の条件。

  • 2011.09.22 Thursday
  • 12:20
人は揺り籠から墓場まで、何らかの社会に所属せずには生きられない、それを好むと好まざるにかかわらず。

たとえ無人島に引きこもって生活したとしても、そこで何かを考え記録することがあったとしたら言葉(社会科の過程で身に着けるもの)に頼らざるを得ないし、仮に何の言葉も習得しなかったとしても名前があれば、それは戸籍という形で社会に記録されているし、それもなかったとしても、自分の親はいるだろうし、いなかったとしても、生まれた地域や国とのかかわりも意識しようとしまいと、無関係ではいられない。人は基本的には他者と関わらずに生きていくことはできない。

その他者とのかかわりの中で、人は自分の意思を相手に伝えなければならない場合がある。その場合に人は何らかの社会的行為に従事するはずである。その社会的行為の中で、参加している行為従事者の行動計画が自己中心的な成果の計算を通じてではなく了解という行為を通じて調節される場合をコミュニケーション的行為とハーバマスは定義している。そして、自己の行動計画を他者の同意や了解に関わりなく、達成するために他者に何らかの働きかけをする場合これは戦略的行為と呼ばれる。

戦略的行為にはその目的が明らかな戦略的行為(権威による、何らかの価値観の押しつけや、主に子供や女性に対するパターナリズム的行為等)とその目的が一件明確でない戦略的行為が存在している。その意図が明確でない(意識的または無意識的に、その行為主体により隠ぺいされている)戦略的行為には、当然オーステインが定義した言語媒介的行為などが含まれる。

具体例を挙げれば、コミュニケーション的行為は政治的決定プロセスから恋愛、デモ、広告、多くの日常的会話がこれに該当すると思われる。明確な戦略的行為の場合は、親が子供に対して「将来あなたの為にならうから勉強しなさい等」と子供と議論せずにその価値観を押し付ける場合がそれに該当する。

明確でない戦略的行為は、政治や恋愛などにおいて多く見られるが、古代中国において、秦の二代目皇帝にたいして、ある宦官が鹿狩りで獲物の鹿を献上する場面があった。
その際に、皇帝に向かって「これは馬です」とその宦官は一言言った。それに対して皇帝は「そんなことがあるわけなかろう」と答えた。そして宦官は周りを見回しながら、また同じセリフを言って「これは馬で間違えないな」と周りの家臣団に聞いてみた。すると家臣団はその鹿を見ているにもかかわらず「はい、馬です」と答えたという出来事があった。この話が事実であるかどうかはどうでもよいのだが、(実際馬鹿の語源の一つと考えられている)、この発言をした意図は、この獲物が鹿か馬かという妥当性に議論をしたいのでもなく、またこのような狩りをすること自体の正当性を問いたいのでもなく、また、単純に宦官がそう思って、自分の感想を発露したのでもないのは明らかで、この会話の目的は皇帝に対して自身の権威を誇示することであり、事実、鹿を馬といわせること=王の考えを公然と否定させることで、自分の方が立場が上であることを示すための発言であった。つまり意識的な言語媒介行為である。

恋愛における言語媒介的行為は、例えばある人が恋人に対して一日一回は連絡するようにとお願いをする場合などがこれにあたる。もちろんこれを意図的にしているのか自分でもそれに気が付いていないのか定かでない場合があるが、この場合、このお願いをしている人が狙っているのは、文字通り連絡を待っているというだけではない、連絡を相手にさせることで、相手の自分への忠誠度を測るという目的を狙っているということもあり得る。このような意図が客観的に推論できる場合、この「お願い」は言語媒介的行為といえる。

まず、戦略的行為について言えば、それが成功する見込みがあるのは、(1)相手が快不快に思おうが、相手に対して要求を付けつけることができ、相手がそれを拒否できない何らかの権威を持っている場合。この権威は政治的権威でもいいし、年齢が上ということでもいいし、多数派であるということでもいい。これは先ほどの宦官の例にあたる。(2)それが戦略的行為であるということが相手が気がつかない場合。先ほどの「お願い」がこれにあたる。

では、コミュニケーション的行為が成立する為の条件とはなんだろうか?これは戦略的行為程単純ではない。この問題に答える前に、まずコミュニケーション的行為の要素の分析からしてみたいと思う。コミュニケーション的行為は先ほどの定義より、何らかの行動計画の調節過程であり、そのためには了解を得られるような働きかけを行うことが前提である。了解という行為は何かといえば、基本的には、ある言説を真であると認め受け入れるということである。

となると、コミュニケーション行為中のある言説を真であると判断する真理条件が問題になってくる。ハーバマスはこの真理条件を3つの異なる世界に対応する条件として定義した、すなわち、論理的妥当性(客観的世界)、規範的正当性(社会的世界)、誠実性(主観世界)。これらの真理条件は独立的だが、ある言説によっては複数の世界に関わる言説を判断しなければならない場合がある。そういう意味で独立であるが相互依存的といえる。
またこれらの3つの世界は当然ある個人の生活世界の中の別々の側面として存在している。

ある言説内容が純粋にこれらのどれかの世界だけに言及している場合、コミュニケー所運成立条件を考えるのはさほど難しくない。単純にある話者がある話題について話している場合、その話題の真理条件が依存する世界と真理条件を認識し、同意すればそれで成立する。例えば、相手が論理的妥当性に関する話題をしている場合、主観的にどう思うか?や社会的常識に会っているかどうかなどという別の世界の真理条件を持ち出したりすることさえなければコミュニケーションは成立する。科学的言説と宗教的言説の間でしばしばコミュイケーションが不可能になるのは、科学的言説の真理条件=論理的妥当性と、宗教的教義の聖典との整合性=社会的規範性というのが別々の世界に属していて、真理条件が異なるからである。真理条件が一致していないのであれば了解が成立する見込みはないのは当然。

このように常に話題がどちらかの世界に還元できるのであればハーバーマスの議論に問題はないのだが、実際のコミュケーションはもっと複雑である。だから、このハーバーマスの枠組みだけでは対応しけれない問題がいくつか出てくる。故にいくつか彼の議論の不備を指摘しておく。

(1)例えば、コミュニケーションは成立する/しないというに二分法で考えるべきものではない。なぜなら、この二分法だと、コミュニケーション的行為が全く成立していない状態なのか?それとも、ほぼ成立しそうだけど微妙に成立していないのか?という差異を分析することができない。この差異を分析することは非常に有益であるにもかかわらずである。それは恋愛、政治、マーケティングなど多岐にわたる。

(2)これらの真理条件は相互に関連するというがどのような形で関連するのか?というのが具体的には見えてこない。確かに彼は主観的世界の真理条件に合致しないだけで、客観世界の真理条件には合致するにも拘らずその結果を拒否する場合などを挙げているが、それがどういう意味を持つのかの説明は明確にされていない。

(3)真理条件同士の関連性というのは当然どの社会でも一定ということはあり得ないわけだが、この分類では、異なる社会における真理条件の関連性の違いを比較することができない。実際に、日本と欧米であれば、その真理条件の関連性の分布は異なる。例えば欧米であれば主観的世界と社会的世界の関連性は薄いが、日本では欧米よりもこの関連性は非常に強い、例えばファッションなどがとても良い例、社会的規範性に主観的世界の価値観を合わせることが非常に多いから欧米よりもファッションが個性的に見えない。このような差異を分析できない。

(4)コミュニケーションは真理条件への一致だけでは不十分で、その目的への関心なども大きな要素になるわけだが、ハーバーマスはこの要素については取り上げていない。例えばある宗教の教義内容には納得できるが、その信者の狂信的態度と自分の関心の大きさに隔たりが大きいと感じてその宗教の教義を受け入れることができない=コミュニケーションが成立しないということもありえる。

私は以上の不備を解決するために以下の戦略をとることにする。まず、コミュニケーション空間を定義する。コミュニケーション空間は、ハーバマスの3つの世界、3つの真理条件を受け継ぐが、私はこの3つを独立した単位ベクトルとみなし、ある行為者があるコミュニケーションを成立するかどうかという条件を、二人の話者の原点からのベクトルを比較することで定義することにする。そして、この3つのベクトルはもちろん相互に直行的ではない、それはこれらの真理条件が完全に独立であることを意味するがそれは理想的状況以外ではあり得ない。

⃗はベクトルを意味します。A ⃗はAベクトルの意味です。A ⃗×B ⃗はABベクトルの内積を意味します。

つまり、主観的、社会的、客観的世界に関する成分をそれぞれ単位元ベクトル(長さ1)(e1) ⃗, (e2) ⃗, (e3) ⃗,、として、Aの、コミュニケーション成立に関する態度は変数Xa, Ya, Za をそれぞれの世界に対する関心とすれば、Aのコミュニケーション空間内における位置ベクトルA ⃗(Xa(e1) ⃗, , Ya(e2) ⃗ , Za(e3) ⃗  )を定義できる。すなわちこの空間では位置ベクトルが関心に値する。同様にBの関心を定義すればB ⃗(Xb(e1) ⃗, , Yb(e2) ⃗ , Zb(e3) ⃗, )となる。

コミュニケーション成立の条件は、両者がコミュケーションの成立にどの程度関心を抱いているか、その関心が近いものであればあるほど成立の可能性は高くなること、そしてコミュニケーションは成立するかしないかではなくて、どの程度の関心の違いならば許容できるか?という話になるから、それはある定数の範囲内になるはずである。

また、関心を位置ベクトルで定義したわけだから、どの程度の関心の向く方向に差があるかということは、このA ⃗, B ⃗ ベクトルの文字通り角度の違いによって表現することができる。この間の角度をθとする。Aが許容できる関心の方向性はどの程度の角度の違いならば受け入れられるかということになるから、その許容範囲を定数Tを用いて、T−a≪θ≪ Ta として、また仮に完全に関心の方向が同じであったとしてもその関心の強さの違いによりコミュニケーションが成立しない場合があり得るから、その関心の強さの閾値(定数Iを用いて表現する)の下限をI-a つまり相手が自分よりもどの程度関心が薄くてもコミュニケーションできるかということに当たり、上限はIa、どれほど自分よりも相手が強い関心を持っていても、引かずにコミュニケーションが取れるかということを意味するわけだから、これは文字通り話者間の相対的な関心の大きさといえるから、A ⃗、B ⃗の大きさをそれぞれ、α、βとすればI-a≪α/β≤ Ia という範囲内ということがわかる。
cos⁡θ=(A ⃗×B ⃗)/(α×β)、θ=cos^(-1)⁡〖(A ⃗×B ⃗)/(α×β)〗、故に、T−a≪cos^(-1)⁡〖(A ⃗×B ⃗)/(α×β)〗≪ Ta

ここでA ⃗×B ⃗=Xa Xb+Ya Yb+Za Zb
またこの単位元ベクトル同士の角度を計算することで、真理条件同士の関連性の具合を数値として計算でき、ある社会同士のその違いの比較も可能になる。

さて、これでコミュニケーションが成立する条件が定義できたが、この成立したコミュニケーションというのは、必ずしも同意を保証しない。立場の違う人同士の討論が成立している場合はこれにあたる。恋愛はむしろ逆で、同意ができる見込みがなければ、そもそもコミュニケーション自体が成立しない。

では同意を得られるためにはどのような条件または能力が必要になるのか?といえば、私のコミュニケ−ション能力についての議論を参照いただきたい。あそこで議論されているのは、成立したコミュニケーションを成立させておく状態を保つための条件が書いてあるので。

ここまで抽象的議論だったので具体例を挙げてみたい。ある個人Aとある個人Bがある話題について議論するとする。この時のAのこの話題に対する態度は、このAは非常に合理的な科学者タイプなのでA ⃗(0×(e1) ⃗, ,0×(e2) ⃗, 2×e ⃗3)と表現できたとする。つまり

論理的妥当性以外には全く興味がないというタイプ。逆にBは権威主義タイプであるとして、論理的妥当性はどうでもよくて、その議題が社会的規範または歴史や文化に強い関心を持っているとする。B ⃗ (0×(e1) ⃗, ,2×(e2) ⃗, 0×e ⃗3)またここでは単位元同士はそれぞれ直行している、つまり、合理化が極めて進んだ理想的社会という設定にしておく。

するとα=2、β=2、A ⃗×B ⃗=0それで、当然ながらθ=π/2 なのでAがBのあるいはBがAのでもよいが、双方の間でコミュニケーションが成立するのは双方が閾値をπ/2よりも大きめに設定している場合となる。今回の場合大きさ=関心は程度だから、それは特殊な状況でない限り問題にならない。例えばAが専門家でBが非専門家となりうるような話をしていて、BがAにより強い関心を期待している場合などがそれにあたる。

参考文献
ハーバマス.J.「コミュニケイション的行為の理論上・中・下」

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