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    ステレオタイプ・偏見・差別・不平等問題の一般的な研究

    • 2010.12.05 Sunday
    • 12:38
    ステレオタイプ・偏見・差別・不平等問題の一般的な研究

    ここでは以下の質問に答えようと思う。(1)これらの概念の定義(2)これらの区別(3)これらの概念の発展(4)差別をする自由が認められない理由(5)差別の種類とその説明(6)差別の論理構造の証明(7)合理的な差別と非合理的な差別の判断基準

    (1)定義について
    ステレオタイプとはある特定の集団が持つと“思われる“共通の性質である。
    偏見とは合理的理由(論理的あるいは、客観的)によらずにある特定の属性を持つ集団に対して、その構成員の個性を無視して、ある属性の集団に過ぎない特徴=ステレオタイプ、をその個人の個性とみなしてある特定の感情をその個人・集団両方に持つことである。

     差別とは、この偏見から演繹される、言動・行動・態度のことである。それはしばしば不平等を引き起こす。不平等とは、何らかの機会または結果が著しく、特定の構成集団間において、公正でない状態のことである。差別には合理的差別(運転免許取得の年齢制限や選挙権の与えられる年齢の差別など)と非合理的な差別がある。特に断らない場合は差別は非合理的な差別を示すとする。不平等については、許容すべき不平等の条件で詳述したのでそちらを参照していただければと思います。

    (2)これらの区別について
    定義より、ステレオタイプ・偏見・差別の関係は自明なので、曖昧である、差別と不平等の区別をしようと思う。差別と不平等は混同されがちだが、実はイコールではない。差別は結果として、常に何らかの不平等を生みだすものであるが、不平等が常に差別なのではない。例えば、私が大けがをして、何ヶ月間か病院に入院しなければいけなくなった場合、私は他者と比べて、著しく、行動の自由が制限されている、という機会の不平等という状態にいるが、これは差別とは全く関係ないのは明らかだろう。では逆に、不平等を生みださない差別形態はあるか?と言えば、それはありえない。それは後に論証する。これで、ステレオタイプ差別・不平等・偏見の区別ができたと思う。

    (3)これらの概念の発展
     偏見はステレオタイプを基に構成される感情である。従って、ステレオタイプ・偏見は、ともにそれだけでは、何らかの不平等を引き起こすとは言えない。この範囲であれば、思想・良心の自由で保護することは可能であるが、それが差別として顕現した場合の言動・態度・行動を保護することはできない。

    しかし、我々人間はそもそも、感情によって言動・態度・行動まで引きずられる場合が多い、それ故に、偏見が偏見のままだけにとどまるのは難しく、結果的には、それが言動や行動、態度などを引き起こし、差別へと変遷するのである。偏見を全く持たなければ、差別などおきないのだが、仮に何らかの偏見を持ってしまっている場合でも、それを行動・態度・言動にしない努力をすれば、最低限不平等を引き起こすことは避けられる。

    (4)差別をする自由が認められない理由
    差別をする自由が認められないのは、コンスタンが主張する、次の二つの現代人の自由の源泉をたどれば十分であろう。つまり、ルソーの社会契約説とロックの自己所有権。まずは社会契約説から見ていくことにしよう。差別という行為はそもそも、人間の自由の平等性に対する挑戦であり、ルソーの言葉を借りれば、「万人に対する戦争」とみなすわけである。故にその自由権を保護する義務はないと考えられる。

     なぜなら、他者の自由の平等性を侵害する自由が認められるとしたら、誰が、社会契約を守るのであろうか?合理的な人間なら、進んで、他者の自由の権利を侵害してでも自分の利得が最大になる行動をとるだろう、なぜなら、それは相互性がない世界であるから。相互性というのは、私が他者の自由の権利を守るから、他者も同じように私の権利を守ってくださいという契約関係であるから、その契約関係の一つが自由の平等性である。

     この相互性=自由の平等性があるからこそ、我々はこの相互性が守られる条件下で最大限の自由を享受できるのである。だから一人でもこの相互性を破棄する人間がいればそれは、誰一人他者の自由の平等を守らなくなるので、「万人に対する戦争」とみなす、とルソーは社会契約論で述べている所以である。

     なぜ犯罪者が自由の平等を取り上げられて拘留されるかといのも全く同じ理由である。つまり、強盗や窃盗などが財産を盗むと、他者の、自らの財産を自らが使う自由という、自由の平等性が、それをされた人間の財産所有権が侵害されて、著し不平等が存在他者と比較すると存在するからである。その結果相互性が破られるわけである。なぜなら、窃盗や強盗に合わないものは自らの財産を自らが使用する権利を全く侵害されていないので。

     それで差別について考えてみても全く同様であることが分かる。差別もその自由の不平等に積極的にコミットする行為なわけであるから犯罪同様に、その差別論者が表現の自由・良心の自由、差別をする自由が剥奪されるということは当然のことである。なぜなら、これらの社会契約違反の個人の自由権を剥奪することで、他者の他の自由の平等性が確保できるからである、先ほどの例のように差別が自由の機会の不平等を生むのは明らか。

     ではロック的な自己所有権と言う観点から考えるとどうだろうか?こちらはルソーよりもより天賦説に近いわけであるが、差別をする権利を自然権と考えそこからの労働の結果として、我々は差別をする権利を所有していると考えることができるだろうか?言い換えれば、では差別をする権利というものが自然により我々に備わっている何かを我々自身の思考という労働の結果として、排他性を帯びているプラスの付加価値が加わり保護しなければならない権利と呼べるのか?少し長いがロックの統治二論から引用することにしよう。

    「たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても、しかも人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働、彼の手の働きは、まさしく彼のものであるといってよい。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混えたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。それは彼によって自然がそれを置いた共有の状態から取り出されたから、彼のこの労働によって、他の人々の共有の権利を排斥するなにものかがそれに附加されたのである。この労働は、その労働をなしたものの所有であることは疑いをいれないから、彼のみが己の労働のひとたび加えられたものに対して、権利をもつのである。少なくともほかに他人の共有のものとして、十分なだけが、また同じようによいものが、残されているかぎり、そうなのである。」(ロック[1968:32-33])

     少なくとも私はロックの自己所有テーゼからも差別をするする権利が出てくるとは思えない。なぜなら、まずはじめに差別の下となる、偏見やステレオタイプというのが身体のように我々に自然的に備わっていると考えることはできないからである。児童心理学の実験によれば、子供が“人種”を認識し始めるのは3〜5歳と言われている。これは何を意味しているかと言えば、肌の色の違いなどを含むステレオタイプあるいは偏見は生得的な者ではなくて、学んだ結果身についたということである、つまり、身体のような自然権とは言えない。

     また、ありえないが、仮に我々が生まれつき他者に対して偏見を以て生まれてくるとしよう。そして、差別はその偏見という自然物を思考という労働を交えた物であるとしよう。さて、こう考えた場合に差別はどの様な付加価値を偏見に対して加え、他者が所有することが認められないくらいの排他性を帯びた価値あるものと社会的に考えることができるだろうか?

     公共性という社会的観点から考えれば、先ほど述べたように、差別は偏見よりもさらに、個人の自由な平等権を侵すものであるから、マイナスの付加価値が加わったと考え排他性はむしろ下がり、保護する必要性はさらに下がった物と考えていいだろう、従って、そのような自然権的でもなく、社会的観点から考えても排他的なものと考えられて所有権が発生するくらい保護しなければいけない権利と考えることはできないから、差別の権利の所有権は認められないのである。

    従ってロック・ルソー、どちらの現代人の自由の源泉を辿っても差別をする自由が演繹できないため、差別をする自由を保障すべき義務はないと考えるそれがリベラリズムの限界だと思う。

    (5)差別の種類とその説明
    差別には二種類ある、一つは直接的な差別、これはその個人の属性を理由にある機会の不平等をもたらすものである。何らかの差別の結果が法制度の不平等で現れていれば分かりやすい(それが直接的な差別であれ、間接的な差別であれ)。では法制度に不平等がない場合差別はどのような形で不平等を生みだすのであろうか?

     一番簡単な例を上げれば、在日韓国・朝鮮人に対する就職差別であろう。1974年の日立就職差別事件に対しての横浜地裁の判決でも明らかなように、在日朝鮮人に対する就職差別は彼らの就職機会の不平等を生んでいた。
    この判決だけでなくて、1984年の神奈川県の県内在住外国人実態調査によれば、在日韓国・朝鮮人の自営業・被雇用者比率は1:1.4に対して、県内一般の1:8.5と比較すれば、いかに彼らの自営業率が高いかが分かるだろう、これは私の友人の。「就職差別があるから、親戚もみんな自営業」といっていた、私の友人の言質と一致する、彼も神奈川県在住だ。

     では二つ目の差別は何かというと、これは直接その属性を理由に差別するわけではないが、間接的には、直接的な差別と同様の効果をもたらす差別である。こちらの差別は非常に分かりにくいし、差別している側が間接的差別ということに気がついてすら以内場合も多い。具体例を上げよう、大正8年に衆議院議員選挙法が改正されて、男子“普通”選挙法が成立した。直接国税3円以上を払う男性なら“だれでも”選挙権が与えられることになったわけである。この改正により男性なら平等に選挙権が与えられたわけである、から選挙機会の平等に“みえる”、しかし、である。

    当時にこれほどの税金を納められたのほどのような人たちであろうか?少なくとも人口の大半を占めていた農民ではないだろう。故に、この選挙法改正は形式的には男子普通選挙を謳いながら、実質的には、以前農民の選挙権は認めていないのと同じで選挙機会の不平等があるので、間接的な差別である。これは、農民には選挙権がない、という直接的な差別をする場合と同じ結果が表れてくるので、その定義からして、間接的差別である。

     女性だけ募集します、と女性であることが必然的に不可欠でない職業にたいして行われていたら、これは直接的な差別だが、仮に、身長が150センチ以下の人を募集します、と書いてあったらどうであろうか?これは間接的差別の例である。なぜなら、身長が150センチ以下の男性は、身長150センチ以下の女性に比べてかなり少ない(男女の平均身長の差を考えれば分かるであろう)、から、女性だけ募集しますと同様に男性の就職機会の不平等を
    引き起こすので間接的差別なのである。

    (6)差別の論理構造の説明
    差別が不平等を引き起こすことは散々論証してきたが、ここではさらに強力な論理による証明つまりをしようと思う。論理が強力なのは、その排他性、客観性、普遍性があるからである。しかも簡潔に説明できる。
    まずある人間X氏がいたとする、例えば、自身の属する集団例えばYに対して認められている権利Bを他の所属集団ZにたいしてはBを認めるべきではない、と主張したことにしよう。

     この主張がなぜ非論理的であるかと言えば、まず自由の権利Bを認めるための原理Aがあるはずである。Bという権利は原理Aの演繹の結果として出てきているものであることは自明である。それで、まず自身については権利Bを認めているわけであるから、X氏は原理Aをも認めていると考えられる。なぜなら、仮に原理Aを認めなければ自身の権利Bをも認めることができないからである。ということは、原理Aから演繹することができる権利Bは所属集団Zにも認められなければならない。

     なぜなら、権利Bは所属集団Yに対してと同様に同一原理Aから演繹されたものでかつ、原理A自体は肯定されているので、権利BはAから演繹されて、その対象がZに変わったと言うだけで、理屈は全く同じだからである。例えば原理Aが演繹できる範囲が所属集団Yにだけ認められて、かつ、それが唯一のものであると論証できた場合にのみ、つまり、その集団Yがその権利Bを受け取ることが原理Aの必用十分条件を満たすときにのみ、Yだけがその権利Bを受け取ることが論理的に正しいと言うことができる。

     この結果から考えてみると分かることは、原理Aに当たるものは、人間に対して誰しもに与えられる権利であってはならない。なぜなら、人間なら誰しも受け取ることのできる権利であれば、Yと同様にZも受け取ることができるゆえに、ある特定の権利Bを排他的に特定の集団Yに与えることはできないからである。
    では特定の集団Yにだけ許されてZに許されない様な排他的な原理Aに実際に当たるものは何かと言えば、それは少なくとも日本国憲法に明記されている権利ではありえない。

     なぜなら、日本国憲法第十四条には法の下の平等が謳われているので、日本国民であれば、誰でもその権利を平等に受け取ることができることが保障されているので、排他的に特定の集団にだけ権利が与えられることができない、ゆえに先ほどの必用十分条件を満たさない為に、この憲法から演繹できる権利はすべて、Xに対して授与されるのならば他の集団Zに対しても授与されなければならない。

     具体例を上げる、従って同性愛者のパレードを異性愛者が表現の自由が損害されることを理由に規制することはできない、なぜなら、ここで異性愛者の手段をXとすると、表現の自由=原理Aは日本国民ならば誰にでも適用されなければならないので、当然同性愛者という集団Zにも適用できる、すると、これを規制すると権利B=表現の自由を守る権利、がXにだけ与えられてZには与えられないということになるので、論理的に矛盾であり、ありえない。
    正し先ほど示した様に、仮にそのパレードの内容が差別を含んでいるのであれば規制すべきである、これは異性愛者の場合も同様である。

    (7)合理的な差別と非合理的な差別の判断基準

    差別を合理的差別と示すためには、次の条件をすべて満たす必要がある。つまり合理的差別の条件である。そして以下の基準のすべてを満たしたものを合理的差別と定義する。一つでも満たさなければ(非合理的差別と呼ぶ)
    (1)その差別が論理的正しいこと(2)定言命法を満たしていること、なぜなら、それが社会契約説を守るための条件であり、相互性を満たす条件であるから。仮に個の基準でも区別がつかなければ、(3)社会学的・心理学的に分析して、その差別がおこなわれることが、歴史依存的に形成されたものではなく、どの時代でどの文化であっても普遍的に正しいと言えるかどうか。の3点だと思う。

     (1)、(2)はここで示したが、というのは、これは一般的な差別ならば、これだけで十分判断できるからであるが、仮にこの二つで判断できない時に(3)の基準が必要になるわけだが、この(3)の基準はその調査対象に依存するので個別に調べなければならないのでここで一般的に方法論を示すことはできない。

    例外もある、それは、ある個人が二つの最低限の道徳能力(ロールズによる)を備えず、自らの善き生き方を合理的に選択することが不可能と思われる個人に対して、その個人にとってその差別をすることが、道理にかないかつ合理的であり、相互性を破壊しない差別である時または、その差別をすることが潜在能力機会の構成を保証する助けになる場合は合理的な差別と考えられる。例えば、(選挙権に年齢制限を設けることや運転免許証の取得年齢に制限を設けること)や(障害を抱える個人に対して税負担を軽くすることなどである)。

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